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221 :花  ◆oJUBn2VTGE :2011/06/25(土) 23:09:26.24 ID:JgZLuGov0
大学二回生の春だった。
その日は土曜の朝から友人の家に集まり、学生らしく麻雀を打っていた。
最初は調子の良かった俺も、ノーマークだった男に国士無双の直撃を受けたあたりから雲行きが怪しくなり、
半チャンを重ねるたびにズブズブと沈んでいった。
結局ほぼ一人負けの状態で、ギブアップ宣言をした時には夜の十二時を回っていた。
「お疲れ」と、みんな疲れ切った表情でそれぞれの帰路へ散っていく。
俺も自転車に跨って、民家の明かりもまばらな寂しい通りを力なく進んでいった。
季節柄、虫の音もほとんど聞こえない。
その友人宅での麻雀のあとは、いつもこの暗く静かな帰り道が嫌だった。
けっして山奥というわけでもないのに、すれ違う人もいない道で、
自分の自転車のホイールが回転する音だけを聞いていると、なんだか薄気味の悪い気分になってくる。
ところどころに漏れている民家の明かり。
その前を通るとき、その明かりの向こうには本当は人間は一人もいず、
ただ町を模した箱庭のなかに据えられた、空虚な構造物にすぎないのではないかと、
そんな奇妙な想像が脳裏を掠める。
その日も、眠気とそんな薄気味悪さから逃げるように、スピードを上げて自転車のペダルを漕いでいた。

線路沿いの道からカーブして、山裾に近づいていくあたりでのことだった。
ふいに、ずしんと内臓に重い石を入れられたような感覚があった。
目の前、切れかけてまばたきをしている街路灯の下あたりに、人影が見えたのだ。
車道だ。ガードレールの外側に、より沿うように何かが立っている。
異様な気配。思わず前方に目を凝らす。
確かに人の形をしている。
夜とはいえ、月明かりはある。そして街路灯のまたたく淡い明かりも。なのにそれは人影のままだった。
じっと見つめていても、真っ暗で、色のない人影のままだった。
自分が歩道、つまりガードレールの内側を走っていることを確認する。
あれと、近づきたくなかった。しかしこの道を通らないと家には帰れない。
俺は息を止めて、その人影の横を駆け抜けた。


222 :花  ◆oJUBn2VTGE :2011/06/25(土) 23:11:20.26 ID:JgZLuGov0
ガードレールの向こうで、真っ黒な人の形をしたものが、こちらを向いている。
前後など分からない。なのにそれがこちらを見ているような気がする。
わずか一メートルの距離。道路側にさらした二の腕の皮膚がゾゾゾと波立つ。
一瞬が、やけに長く感じられた。
そのままペダルを踏む足に力を込め、振り返りもせずに俺は全力でそこを立ち去った。
異様な気配はそれでもしばらく、うなじのあたりにチリチリと続いていた。

その翌日。
俺は師匠の家に行った。オカルト道の師匠だ。こんな話にはめっぽう詳しい。
昨日体験したことを話すと、思いのほか興味を引かれた顔で食いついてきた。
体験した自分には恐ろしくても、話自体はそれほど衝撃的なところも、おどろおどろしいところもなく、
浴びるほどそんな体験を見聞きしてきたという師匠ほどになると、
この程度の話では「ふうん」と鼻で笑われると思っていたのだ。
その師匠が身を乗り出してやけに真剣に聞いてくれる。逆に気持ちが悪い。
なのに、そのくせ聞き終わるとこう言うのだ。
「それは幽霊じゃないよ」
俺は唖然として、「なぜですか」と言った。
「幽霊ってのが、死人の身体から離れた肉体を持たないなにか、と定義づけるなら、そいつは違う」
肉体?
ではあれが肉体をもっていたというのだろうか。
「違う違う」
師匠は右手をひらひらさせる。
「でも、あとから思い出したんですよ。
 あの街灯の下のガードレールのあたりに、いつも花が飾ってあったんです。
 こう……地面に置いた空き缶とか空き瓶に花を挿してたんです。こういう花ですよ」
俺は散らかった師匠の部屋の窓際に置かれている、小さなプランターを指さした。
黄色い花弁の中に黒い染みがある。パンジーという名前だったか。
「今日、近くに住んでる友だちに聞いたら、あそこで昔、交通事故があったらしいんですよ。
 子どもが車に轢かれて、即死したらしいです。
 それで、その事故現場のあたりを夜中通ってると、
 今でもその子どもがそこに立っているのが見えてしまうらしいです」


223 :花  ◆oJUBn2VTGE :2011/06/25(土) 23:12:42.72 ID:JgZLuGov0
確かに麻雀をしにその友人の家に行くときは、いつもその手向けられた花が目に入っていた。
お菓子の袋なども添えられていることがあった。
ぞっとする。
それでも成仏できずに、今もその子が彷徨い出てくるのだろう。
何気なく見過ごしてきた日常の風景の中にも、消えることのない人の思いが潜んでいる。
なんだか暗い気持ちになって僕は肩を落とした。
その僕の思いが全く伝わっていないかのように、師匠は「違う違う」と左手をひらひらさせた。
なにが違うのか。気分に水を挿され、少しムッとしながら一応言い分を聞いてみる。
「それって、あそこだろう。交通安全の看板が近くにある……」
ああ、そういえば、間抜けな標語が書かれた看板があった気がする。
師匠は立ち上がり、プランターのパンジーを引き抜いて、台所の転がっていた空き缶に挿してから、
俺の前に置いた。
「で、その花ってこんなだろう」
「そうですけど」
「これだよ」
「は?」
「だから、これ、僕が置いてるんだ」
ぽかんとした。
「どこから話せばいいかな…… まあ、めんどくさいんで端的にいうと、僕の仕業だ」
唖然とする僕を尻目に師匠は続ける。
「もともとは僕の師匠の研究だったんだ。
 まったく何の謂れもない、その変の道端に花を飾るとどうなるか、っていう。
 もちろん交通事故なんて起こってないし、死んだ子どももいない。
 花が枯れてもしばらくすると、また新しい花を置きに行くんだ。何度も何度も。
 誰が置いてるかばれないように、人気のない夜中を選んで。
 そうしていると、ある日置いた覚えのない花が置かれてるんだ。誰か他の人が置いたんだよ」
師匠は嬉々として語る。胸糞の悪くなるような、それでいて聞き逃せない、奇妙な話を。
空き缶の中のパンジーの花びらをつまみながら師匠は続けた。


224 :花  ◆oJUBn2VTGE :2011/06/25(土) 23:16:00.27 ID:JgZLuGov0
「ガードレールの下の花に、手を合わせる人も現れた。お菓子を置いていく人もいる。
 一ヶ月や、二ヶ月なら、そこで事故なんて起こってないってことは地元の人なら分かってるさ。
 でもそれが何年も続いていると、記憶が曖昧になってくる。
 あの花はいつから置かれていたっけ?
 自分の知らない間に、そんな事故があったのかも知れない。
 あそこで事故があった?他の人にそう尋ねる。
 何年も経つと、周辺の住民にも人の入れ替わりがある。
 引っ越してきて以来、ガードレールの下の花を見るたびに、事故でもあったんだろうかと思っていたその人は、
 こう答える。
 事故が、あったみたいですねえ」
師匠は声色を変えて演じる。
気持ちが悪い。その声が、ではない。人の心を操るようなその不遜さが。
「人々の心の中に、死者が生まれたんだ。
 人は花を飾り、手を合わせ、祈る。死者の冥福を。魂の安らぎを。
 そうして生まれてしまった死者は、人の言葉から言葉へと感染する。
 ガードレールのそばで車に跳ねられた子どもとして。あるいは老婆として、あるいは妊婦として。
 元々の形をもたないそれは、様々な姿をしている。
 コミュニティを媒介する摸倣子は、情報伝達の過程で変異する。
 あるはずのない、怪談話が生まれるまではもうすぐだ」
ただ花を置いただけだ。道端に、ただ花を。
たったそれだけで。
俺は得体の知れない寒気が身体の中を走るのを感じていた。
「十年だ。僕の師匠が街中に花を飾り始めて」
師匠はニヤリと笑った。
街に花を飾ろう、という運動は聞いたことがある。しかしこれは、似て非なるものだ。
まちじゅう?
少し遅れてその意味を認識する。
そう言えば、師匠のアパートには部屋の中だけではなく、
玄関の外にもプランターがいくつかあったことを思い出す。
この人にしては妙な趣味だと思っていた。
街中に、そんな花が飾られているのか。
そして、その花の中から湧き出るように、名前のない死者たちが……


225 :花 ラスト  ◆oJUBn2VTGE :2011/06/25(土) 23:18:10.99 ID:JgZLuGov0
「幽霊ってのが、死人の身体から離れた肉体を持たないなにか、と定義づけるなら、
 昨日見たそれは幽霊ではない。
 死人の身体から離れたものではなく、はじめから死人としてしか存在していないんだから。
 そしてどれほど多くの人が冥福を祈っても、成仏を願っても、叶うことはない。
 本来の意味で言う、死者ですらないそれは、
 人々が冥福を祈ることで、成仏を願うことで、そして畏れることでこそ、存在し続ける」
なんてことをするんだ。と思った。
語りながら恍惚とした表情を浮かべるこの人は、
普通の人とは違う倫理観を持っているということを、今更ながら思い知らされた。
人から人へと感染し続けるウイルス。
目に見えないその存在のことを考えた時、脳裏に浮かんだのはそれだった。感染が人の心に幻を生むのだ。
そして自分の中にもそれは入り込んでいる。
だが。
「おかしいですよ」
ようやくその言葉を搾り出した。
「なにが」
「その、ガードレールのところに花が飾られていたのを思い出したのは、通り過ぎた後です。
 それにそこで交通事故があって、子どもの霊が彷徨っているなんて話を友だちから聞いたのは、
 今日になってからです」
「だから?」
「だから、誰からもそんな話を聞いていないし、なにも知らなかったのに、
 存在しないものをどうして見られるんです?
 『あれ』はなんだったんですか」
自分で言っていてゾクリとした。
俺は『感染』していない。誰からもそこで起きた、ありもしない事故の噂を聞いていない。
自転車で通るときに、花があるなあ、とは思ったことがあったが、
そこで誰か死んだのではないかという思いを抱いたことはなかった。
連想すれば自然にたどり着くかも知れないが、そこまでの興味を持たなかった。
ただ視界に入った、というだけの景色の一部に過ぎない。
そしてそんな花のことも思い出さず、ただ自転車をこいでいただけの俺の前に、
どうしてそんな得体の知れないものが現れる道理があるのか。
人間心理を利用して人為的に作り出されたはずの幻としての「死者」が、まるで…………
まるで、人の心の外へと滲み出して、ひとりでに歩き出したかのようではないか。
俺が見つめているその先で、師匠が空き缶に挿したパンジーの茎に指先を添えて、ゆっくりと口を開いた。
「だから、研究を続ける価値があるんじゃないか」
そうして静かに花の首を手折った。
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テーマ:オカルト・ホラー - ジャンル:

2011.07.29 | | コメント(1) | トラックバック(0) | 本編 | TOPへ

星を見る少女

463 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 22:12:11 ID:rM70Z9OU0
大学一回生の春だった。
そのころ僕は、以前から興味があった幽霊などのオカルト話に関して、
独特の、そして強烈な個性をまき散らしていた、サークルの先輩に心酔しつつあった。
いや、心酔というと少し違うかも知れない。怖いもの見たさ、のようなものだったのか。
師匠と呼んでつきまとっていたその彼に、ある日こんなことを言われた。
「星を見る少女を見てこい」
星を見る少女?
一瞬きょとんとしたが、すぐにそんな名前の怪談を思い出す。怪談というよりも都市伝説の類かも知れない。
「どこに行けばいいんですか」と訊いてみたが、答えてくれない。
何かのテストのような気がした。ヒントはもらえないということか。
「わかりました」

そう言って街に出たものの、地方から大学に入学したばかりで土地勘もない。大きな街だ。
まったくの徒手空拳で歩き回り、偶然見つかるほど甘いものではないだろう。
ということは、このあたりでは有名な話なのかも知れない。

僕は所属していたサークルへ足へ向けた。
部室でだべっていた数人の先輩に、『星を見る少女』について訊いてみる。
「ああ。あの、橋のところのマンションだろう」
あっさりと分かった。
ある一室の窓に、ベランダ越しに星を見る少女の姿が見られるのだという。
「何号室なんですか」
「さあ、そこまでは」

サークルでの情報収集を終え、次に大学の研究室へ向かった。
ゼミの時間ではなかったが、やはり先輩を含む数人が、書籍に囲まれた狭い室内でだべっている。
「聞いたことがある」
地元出身の女性の先輩がそう言った。
「リバーサイドマンションって名前じゃなかったかな」
「何号室とか」
「さあ。空き部屋って話だったとは思うけど。今でもそうなのかな」
あまり芳しくはなかったが、この程度の情報でも十分だろう。

研究室を出ると、僕はすぐさまくだんのマンションへ向かった。


464 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 22:15:30 ID:rM70Z9OU0
小一時間自転車を走らせると、市内を流れる大きな川沿いに、四階建てのマンションの姿が見えてきた。
ベランダ側が川に面していて、ちょうど橋の上から全体が見渡せる。向かって左手側の堤防の向こうだ。
その日は春らしい暖かさはどこかに消えて、冬に戻ったような肌寒さを感じる日だった。
風が強く、橋の上から見下ろすと、川面がさざなみ立っている。
橋の中ほどで自転車を止めてマンションを眺めると、各部屋のベランダに、布団や洗濯物が干してあるのが見えた。
思わず空を見上げたが、薄い雲に覆われていて日差しは弱々しい。
乾くには時間がかかりそうだ、と余計な心配をしてしまう。
「どの部屋がそうなのかね」
吹きさらしの橋の上で、肩を縮こませながら口に出してみる。
広く知られている『星を見る少女』という怪談の中身、はおおむねこうだ。


バイト帰りの男子大学生が夜遅く自分の家へ向かう途中、あるアパートの二階の窓に若い女の子の姿を見た。
彼女は身じろぎもせずに、じっと窓の外の空を見ている。満点の星空だ。
そのアパートを通り過ぎて家に帰り着いてからも、大学生はその女の子のことがやけに気になった。
星空を見つめているという姿に、ロマンティックなときめきを感じたのだ。

次のバイトの日、また夜遅く家へと帰っていると、あのアパートの前を通りがかった。
すると先日と同じように、あの女の子が窓辺から夜空を見ている。
暗くてよくは分からなかったけれど、その横顔はとても素敵に見えた。
名前も知らないその女の子に恋心を抱いた大学生は、
次のバイトの日の帰り、また同じように窓辺から星を見つめている彼女の姿を見たとき、たまらくなくなって、
自分の思いを伝えようと、そのアパートの部屋を訪ねた。
玄関のドアをノックしても返事はない。中は明かりもついていないようだ。
それでも彼女は部屋にいるはずなのだから、ノックが聞こえていないのだろうかと、そっとノブを捻る。
開いた。
部屋の中を覗き込んだ彼が見たものは、窓際で首を吊っている女の子の姿だった。
まるで窓の外の星を見ているような。


グロテスクなオチだ。
それが改変されたと思われる、『てるてるぼうず』の話も聞いたことがある。


465 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 22:20:21 ID:rM70Z9OU0
窓辺の首吊り死体がやがて腐り始め、首から下がズルリと崩れ落ち、
頭部とそこからぶらさがる脊椎だけが縄に吊るされている。
その凄まじい状況が、遠目にはてるてるぼうずのように見える、という話だ。
こちらはあまりメジャーではないが、『星を見る少女』の方はテレビや雑誌でもそれに類した話をよく見るので、
全国的に広がった話だと言えるだろう。

しかし、このリバーサイドマンションにまつわる『星を見る少女』の方は、
その名前は街なかでそこそこ知られているものの、噂自体は具体性にかけるようだ。
今日聞いた話では、
「誰も住んでいないはずの部屋の窓から、女の子が外を見ている」というものと、
「その部屋で死んだ女の子が、夜中に窓から星を見ている」というものがあった。
前者は全国版と同じように、
その女の子の姿が気になった男が部屋を訪ねてみると、首吊り死体があったというオチだった。
後者は首吊りというオチがないかわりに、最初から死者であることが示されていることで怪談になっている。
まったく違う話のようだが、時系列になっているようにも思える。
首を吊って死んだ女の子が、今でも亡霊として現れるという筋だ。
真相はともかく、窓から少女が空を見ているという部分は共通しているはずだ。

僕は各部屋のベランダに干された布団が、風にたなびいている様子を眺める。
ほとんどの部屋がカーテンを閉めていて、その向こうは見えない。留守が多いのだろう。
カーテンが開いている窓もいくつかあったが、ガラス戸は閉まっていて、そのいずれにも人の姿はなかった。
まあ昼間からそうそう出るものではないだろう。
『出る』という言葉を思い浮かべてから、今さらながら気づいた。
師匠は星を見る少女を見てこい、と言ったのだから、現在も継続する怪談のはずだ。
ということは、今日聞いた二つの噂のうち、全国版に近い『首を吊っていた』というオチの方はおかしい。
それは誰かの体験談として語られるタイプの怪談であり、
同じ体験をしてしまうかも知れない、という怖がらせ方をするものではないのだ。
それを聞いたあなたのところにも……という巻き込み型の話にもならないはずだ。前提条件が特殊すぎる。
やはり、死んだはずの少女が窓に映っている、という方が本命か。それを見てこいというのだ。
そうとなれば昼間に来ても駄目だろう。夜を待つしかない。なにせ『星を見る少女』なのだから。
僕は現地を確認したことで、それなりに満足して立ち去った。


466 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 22:24:27 ID:rM70Z9OU0
その夜である。
僕は同じ橋の上に立っていた。
まだ風が強く、街の明かりが波立つ暗い水面に乱反射していて、風情がない感じだ。
その川の堤防の向こうに、四階建てのマンションの姿がある。
各部屋の窓には、カーテン越しに明かりが灯っている。
腕時計を確認すると、夜の十一時。この時点で明かりが消えている部屋は四つ。
目を凝らすと、そのうちの一部屋は洗濯物が出しっぱなしになっているのが見える。
残りの三部屋は、昼間に洗濯物を干していたかどうか思い出そうとしてみたが、記憶があいまいだった。
ただ、空き部屋があるとしたら、その三つのどれかだ。
じっと見つめていても、それぞれの窓にはなんの気配も見当たらない。
というよりも、明かりのない窓は暗すぎて、中に人がいても見えそうもなかった。
僕は、明るい方から暗い方はあまりよく見えない、という法則を思い出した。
昼間は、暗い家の中から明るい外の様子がよく見えて、外からは家の中がよく見えない。
夜は逆に、明るい家の中を外から見られてしまい、家の中からは外が見えない。
橋の上も街路灯がぽつりぽつりとあるだけで、さほど明るい訳でもなかったが、
数十メートル離れたマンションの、暗い窓の向こうを見て取るのは無理な話だった。
今いる場所は橋の中ほどだったが、
これ以上マンションの方に近づくと、角度がつき過ぎて横からの眺めになるために、
部屋の中は見えなくなってしまう。

なにか変だった。
これでは星を見る少女を見ることができない。誰にも。
念のために橋を渡り、マンションの前に行ってみたが、
川の堤防に近すぎて、その堤防ぶちギリギリに立って見上げても、角度がきついため窓がよく見えない。
各階のベランダの足場を、下から見上げる形になるからだ。
もちろん対岸からでは遠すぎる。やはり窓の向こうに人影が見えるとすると、あの橋の上からだ。
それが周囲を観察して出した僕の結論だった。
あるいは、川に船を出せばもっと近くで窓を見ることができるかも知れないが、
それでは一般的な噂にならないだろう。
「ううう」と唸って、僕はもう一度堤防沿いからマンションを見上げる。


467 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 22:29:41 ID:rM70Z9OU0
風が吹きつける橋のあたりから、気味の悪い音が響いてくる。ロープや欄干を抜ける多層的な風切り音が。
良い雰囲気だ。ゾクゾクする。
なにか手がかりはないかと思ったが、ウロウロしていても思いつきそうな気配はなかった。
コンビニの袋を提げた住民が、マンションの入口のあたりからこっちを不審そうに窺い始めたので、
気の弱い僕は、もうそれだけで退散したくなってきた。
しかたなしに一旦堤防沿いを歩き去ってから、せめてどこが空き部屋なのかだけでも確認できないかと、
ぐるりと遠回りしてマンションに戻り、入り口近くの郵便受けの様子を確認した。
銀色のボックスにつけられた部屋番号の下に、名前のプレートがあるものもあったが、
部屋番号のみのものも多かった。
防犯対策か、あるいは訪問販売対策なのだろうか。
チラシの類が大量に詰め込まれているようなボックスもない。
空き部屋があっても、管理人か誰かがこまめに回収しているのだろう。
考え込んでいると、背中に視線を感じた。
「あの、すみません」
主婦らしき女性が、自分の部屋のボックスを開けようとしていた。
僕は自分でも情けないくらい狼狽して、しどろもどろに弁解じみたことを言いながら、その場を逃げ去った。

帰り道、師匠ならずぶとく情報収集をしていただろうなあと思い、なんだか情けなくなった。

次の日、僕は大学の講義の空いた時間を利用して、またリバーサイドマンションへ来ていた。
どう考えてもおかしいのだ。夜の暗がりの中では、やはり橋の上から明かりの消えた室内は見えない。
ということは、明かりのついた部屋、つまり空き部屋ではなく、誰かが住んでいる部屋での出来事なのだろうか。
それにしても、窓際に立って外を見ている人ならば、室内の光は背後から来ているはずだ。
直接顔が照らされていない人を、夜中に橋の上のこの距離から見て、
はたしてそれが少女であると視認できるものだろうか。
おそらく、誰か分からないけど人影が見える、という程度ではないか。
考えれば考えるほど分からない。
昨日から引き続いて風の強い日だった。川面に映るマンションの姿も、ぐちゃぐちゃに揺れている。


468 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 22:32:45 ID:rM70Z9OU0
今みたいに橋の上から川を見下ろして溜息をついていると、誤解されそうだった。
「おい」
そんなことを自嘲気味に考えている時、急に背中から声をかけられ、飛び上がりそうになった。
振り向くと、茶髪にピアスの怖そうな人が立っている。
「なにしてんだこんなとこで」
一瞬緊張して身体が固まったが、相手の物腰が因縁をつけている感じではないことに気づく。
「あ、先輩スか」
ふいに思い出した。確か同じ研究室の三回生だ。ほとんど研究室には顔を出さない人なので、うろ覚えだった。
「サボりか」と訊かれたので、「いや、まあ」と笑ってごまかす。
「あの時は悪かったな」そう言って肩を叩かれた。
笑っている。つられて笑っているうちに、だんだん思い出してきた。
学内の芝生で行われる、伝統の新入生歓迎コンパで、
僕にむりやりビールを飲ませ続け、人生初のリバースを体験させてくれたのがこの先輩だった。
「オレの家、アレなんだよ」
先輩はそう言って、リバーサイドマンションを指さした。
「いや、一人で借りてるわけじゃねえよ。親、親。実家があそこなんだよ。
 オレはもっと大学の近くに部屋を借りてんだけど、洗濯がめんどくさくてな。
 ためこんだブツをおすそ分けしに、しょっちゅう帰ってんだ」
あ、いいな。と思ってしまった。
僕も初めての一人暮らしで、一番困っているのが洗濯だったからだ。
親に任せていた高校時代には想像もしていなかったが、これが実にめんどくさい。
先輩は思ったより気さくな感じだったが、やはり見た目の怖さにはすぐになじめない。

会話が途切れたところで、「じゃあこれで」と立ち去ろうとしたが、
今さらこの人が重要な証人であることに気づいた。
「え、じゃあ、あの噂知ってますか。あのマンションの部屋の窓から女の子が……」
「ああ。知ってるよ。空を見る少女とかなんとかいうヤツな」
当たりだ。本当は星を見る少女だが。
僕は興奮してたたみかけた。


470 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 22:36:11 ID:rM70Z9OU0
「先輩は見たことありますか?どこから見れるんですか?どの部屋ですか?空き部屋なんですか?」
「おいおい。ちょっと、待て。落ち着け」
先輩は周囲の目が気になったようで、
あたりを見まわしたあと「こっちこっち」と、マンション側へ橋を渡りきった所にあったベンチに僕を誘った。

「あれってただの噂だろ。ほんとなわけないじゃん」
座って早々に先輩は言った。
あ、やっぱり。
妙に納得してしまった。それが普通の感覚なのだろう。
「誰もいないはずの空き部屋に、そんな女が見えるって話だろ。オレの知ってる限り空き部屋なんてねえよ。
 あんまガキのころは分かんねえけど、高校、ていうかたぶん中学以降は、ずっと住人メンバー変わってないはずだ。
 それに……」
先輩はマンションの方を振り向きながら顎をしゃくった。
「空き部屋ならよ、雨戸閉めるだろ、普通」
「あ」と声が出た。言われてみるとその通りだった。
フローリングだか畳だか知らないが、
空き部屋の日光の入るベランダの大きな窓に、雨戸で目張りをしないはずはなかった。
「その部屋で死んだはずの子が、夜中に窓から外を見てるとかって話はどうなんですか」
「そんな噂もあったなあ。どっちにしろデマだ、デマ。そもそもマンションで誰か死んだなんて話、聞かねえよ」
「あほくさ」と呟いて先輩は、「迷惑なんだよなあ、住民としちゃあ」と真面目な顔で語った。
彼自身はもう住民ではないはずだったが。
「203号室だとか、302号室だとか、いやいや402号室だとか、全部噂の中身が違うんだぜ。適当すぎだろ。
 オレんちの部屋のバージョンもあってさ、中学のころにからかわれたこともあんだぜ」
ほんとに迷惑だ、となぜか僕を睨みつけてきた。
「すみません」ととっさに謝りながら、ふと湧いた疑問を口に出していた。
「かなり昔からある噂なんですか」
「ああ。ガキのころからあった気がするな。あんま覚えてねえけど」
昔からある噂……
まったく根も葉もないものが、それだけ長く続くなんてことがあるのだろうか。


471 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 22:40:06 ID:rM70Z9OU0
考え込んでいると、いきなり先輩が立ち上がり、僕の肩をドシンと叩いた。肩を叩くのが好きな人だ。
「とにかく、そんなくだらねえ噂信じてんじゃねえよ。迷信なんて信じるとろくなことにならない、って言うだろ」
後半は冗談のつもりだったらしく、笑いながら肩をバンバンと叩かれるので、
僕はぎこちなく愛想笑いを浮かべるしかなかった。

先輩と別れ、追い立てられるようにその場を後にした僕は、
自転車に跨りながら、今日得た情報を頭の中で整理していた。
昔から空き部屋はない。死んだ女の子もいない。噂の中身もバラバラ。住民自身も信じていない。
溜め息が出た。噂なんてこんなものか。現実に、星を見る少女なんているわけはないのだ。
それでも……
(星を見る少女を見てこい)
脳裏に蘇った師匠の言葉に、僕は頷くのだった。

その三日後、めげない僕はまたリバーサイドマンションを望む橋の上に来ていた。
なんの目算もない。とりあえず来てみたのだ。我ながら涙ぐましい無駄な努力だ。
実は一昨日も来ていた。もちろんなんの収穫もなく帰っている。
橋の真ん中に欄干が少し外側へ膨らんだ場所があり、そこがマンションを見るベストポジションだった。
僕はそばに自転車を止めると、その位置に両肘を乗せた。
そして、ふと気づいて、先輩がいないか辺りを見回す。
この噂話にかなり迷惑を被っているであろうその先輩は、冗談めかして笑ってはいたが、
興味本位で噂を追いかける野次馬に、内心むかついているのは容易に想像できた。
また僕がこりもせずにこんなところにいるのを見られたら、どんな目に遭わされるか分かったものではない。
実は昨日も来ていたのだ。そしてなにも見えずに帰っている。ようするに毎日来ているのである。
よし、と先輩がいないのを確認して、マンションの方へ向き直り、観察を開始する。
整然と並んだベランダには、いつものように洗濯物がずらりと並んでいる。
よくもまあそんなに毎日洗濯ができるものだ。
僕などもうめんどくさくてめんどくさくて、一週間は平気で溜め込んでいる。
実家へ持ち込める先輩が心底羨ましかった。


473 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 22:46:15 ID:rM70Z9OU0
それにしても今日は良い日差しだ。
ここ数日の寒さが嘘のように春らしい暖かさが戻ってきたし、絶好の洗濯日和と言えるだろう。
午後の陽光に目を細めながら、僕は良い気持ちでマンションの全景を眺めていた。
カーテンが閉められている部屋が全体の六分の五。半端に開いているのが二部屋。全部開いているのも二部屋。
どの部屋のベランダにも、布団を叩いたり洗濯物を干したりするような主婦の姿はない。
平日だし、共働きも多いのかもしれない。
主婦のスケジュールはよく分からないが、
専業でも洗濯物を干したりなんかは、午前中にするものと相場が決まっているのかも知れない。

……
あくびがでた。
欄干に顎を乗せる。眠くなってきた。
今日は風がないな。
だから暖かいのかも知れない。
首を伸ばして川を見下ろすと、凪いだ水面が静かにたゆたっている。
昨日までの、風でさざなみ立っている時とは全く違う相貌だ。
川面はまるで鏡のように、周囲の景色が鮮明に映りこんでいる。時が止まったように。
鏡の中のマンションを見ると、ベランダに出された布団の色も見て取れる。目を凝らせば柄まで見えそうだ。
洗濯物も、カーテンも、人間の顔まで見えた。
妙に感心してしまった。
いくら風がなくても、海ではこうはいかないだろう。
湖や流れの緩やかな川で、しかもよほど条件が整わなければ、これほど綺麗に景色を映すことはないだろう。

実に良い物を見たような気になり、満足してしまったので、今日はもう帰ろうかと顔を上げかけた。その時だ。
じくり、と首筋に何かが這うような、気持ちの悪い感覚が走った。
顔。
顔だ。
さっき確かに人間の顔が見えた。
思わず顔を上げて、橋の向こうのマンションを見る。
一階、二階、三階、四階。どの部屋もベランダは無人だ。そしてほとんどの部屋はカーテンが閉まっている。
人の姿は見えない。
胸に動悸を感じながら橋の下に目を向け、鏡の中のマンションを見つめる。
いる。
部屋の一つ。三階の、右から三番目の窓。カーテンが半分開いている。


477 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 23:03:33 ID:rM70Z9OU0
その窓際から外を見ている顔。女の子だ。髪が長い。
僕は狼狽して目を擦った。鏡のようだとは言っても、しょせんは流れている水だ。
見間違いということはあるかも知れない。
しかし何度目を擦っても、水面に映るその部屋の窓には、女の子の姿があるのだ。
顔を上げて現実のその部屋に目を凝らしても、カーテンは半分開いているが、窓の向こうには人影すら見えない。
そのまま顔を下げると、鏡像の女の子はじっと外を見続けている。
それも気のせいか、こちらを見ているような気がする。
ぞくりとして生唾を飲み込む。
橋の下の川面に映った鏡像の中からの視線が、橋の上にいる僕の方へ伸びてくる。
思わずその視線を避けて、のけぞるように顔を背ける。
自然とその視線を、可視的で立体的なものとしてとらえ、その行方を追いかける。
視線は僕のいた場所を通り過ぎ、そのまま突き抜けるように空へと向かっていった。わずかな雲の浮かぶ青空へ。
その瞬間、僕の中に凄まじい、感情とも快感ともつかない、なにか未分化の奔流のようなものが走り抜けた。
空を見る少女!
先輩は確かにそう言った。噂の原型はそれなのだ。言い間違いでも、聞き間違いでもなかった。
どおりで夜には見られないはずだ。
そうなのだ。この、空を見る少女こそが!

放心した僕の頬を風が撫でた。暖かい春の風が。
ハッと気づいて川を見下ろす。
もう水面は、たなびく風に波立ち始めていた。
マンションも、部屋の窓も、その向こうに儚げに立つ少女の姿も、
なにもかもが溶け合うように虚ろに揺らめいている。
もう見えない。
川の上流に目をやると、波立った水がどこまでも伸びている。
少なくとも、上流のあの波立った水面がこの橋の下を通り過ぎるまで、もう鏡のような姿には戻らないだろう。
それまでにまた風が吹いてもだめだ。
僕は力が抜けたように、欄干へ身をもたせ掛けた。


478 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 23:06:34 ID:rM70Z9OU0
そして橋の下に目を向け、もう見えなくなったあの繊細な鏡像を、あの顔を、そこに見ようとする。
星を見る少女に恋した大学生の気持ちが、少し分かったような気がした。
手の届かないものだからこそ、美しいのだ。
僕はもう一度、今度は心の中で思い描いた。
気まぐれに現れた奇蹟のような時間、確かにそこにあった幻を。

その夜。
師匠の部屋に乗り込んだ僕は、ことの次第を告げた。
ニヤニヤしながらも師匠は、口を挟まないまま聞き終わる。
そしてやおら押入れに上半身を突っ込むと、ごそごそと中を探り、一冊のバインダーを出してきた。
パラパラと捲っているのを見ると、色々な新聞記事などのスクラップのようだった。
「お前が見たのが、まさに噂の正体だ。空を見る少女。
 川の中から空を見上げているその姿を、たまたま見てしまった人がいたんだろうな。
 霊感と、鏡のような水面。その二つが偶然に重ならないと見られない、実にレアなお化けだ」
ページを捲りながら師匠は言う。
『お化け』と表現されると、ロマンティックな気持ちに浸ったままの僕は、なにか釈然としないものがあった。
「元々はその正しい噂があったのかも知れない。
 しかし『星を見る少女』という、もっと有名でかつ似た名前の都市伝説があったために、混同されてしまったんだ。
 空を見る少女の方はめったに見るもいないんだから、噂の混同部分の比率では自然にマイノリティになってしまう。
 結局、様々にバージョンの広がった『星を見る少女』の中に、取り込まれちまったんだ」

「あった、これだ」と、師匠は古びた新聞紙の切り抜きを取り出した。
地元紙の地域欄だ。日付は十七年前。
何か裏を取ったのか、この人は。感嘆が喉元まで出掛かる。
記事には『女子高生水死』という文字が大きく印字されている。
場所はあの川で、まさにリバーサイドマンションの堤防のすぐ前のあたりだ。
それほど水深もなさそうだったのに。記事を読む限り水死の原因は分かっていないようだ。
死亡した女子高生の住所も出ていたが、リバーサイドマンションではなかった。
「そりゃそうさ。この子は、リバーサイドマンションになにか執着があって、そこに迷い出てきてるわけじゃない」


479 :星を見る少女 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 23:08:46 ID:rM70Z9OU0
師匠は記事をひらひらさせながら、説教じみた口調で続けた。
「鏡の中からの視線が空に向いてるってことは、
 本来のマンションの部屋からの視線は、水面に向かっているってことだ。
 反射角度とか難しいこと考えなくても、それは分かるよな。
 ようするに、この子は自分の死んだ場所を見つめているだけだ」
それを聞いた瞬間、ぞくっとした。
『星を見る少女』にも負けず劣らず、グロテスクなものを感じたからだ。
「噂では203号室だとか、302号室だとか、肝心のその部屋がどこかって部分はバラバラだ。
 実際にどこでもいいからだよ。
 要するにこの子は、その川の場所さえ見られたらどこからだっていいいんだ。カーテンが開いている部屋なら」
と、いうわけだ。
そう言って師匠は、満足したように口を閉じた。そして新聞記事を、スクラップの中に淡々と戻している。

僕は数日間のささやかな冒険のことを思い返し、複雑な気持ちだった。
『星を見る少女』という怪談、あるいは、都市伝説に塗り替えられてしまったあの少女のことを思うと、
なんだかやり切れない思いがあった。
直接マンションの部屋に出るわけではなく、いや、実際はそこにいるのかも知れないけれど、
水面に映った幻の中でだけ見ることが出来る、というのが、
なんだか若くして儚く散った彼女の生涯に重なるようで、思わず目頭が熱くなってしまった。

そんなことをぽつぽつと呟いていると、師匠は僕の肩をどやしつけた。最近やたらと肩を叩かれる。
「一応、ミッションは合格にしといてやるけど、優良可で言うと良だ」
なんだ偉そうにこの人は。ムカっときて思わず睨むと、その数倍鋭い眼光に射竦められた。
「だったら優はなんなんです」
僕がなんとかそれだけを返すと、師匠は暗く輝く瞳を細め、その眼球を自分の手で指さしながら、ぼそりと囁く。
「俺は、直で、見られる」
「いつでもな」と、口を歪めて笑った。
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2011.07.29 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 本編 | TOPへ

*管理者注:pixivに改稿版がupされました



88 :どうも ◆oJUBn2VTGE :2010/12/25(土) 23:47:39 ID:ANcoT4Xq0
ウニです。
こんばんわ。
これから書く話は、とある事情でタイトルは最後に出てきます。
しかし、まだ最後まで完成しておらず、続きは年明けになります。
なんとか1月中には終わらせたいですが、どうなることか・・・
ずるずると先延ばしにしていた話なので、
とりあえず見切り発車すればいやがおうにも書かざるを得なくなるのでは、という甘い考えです。
では。


89 :未 ◆oJUBn2VTGE :2010/12/25(土) 23:50:33 ID:ANcoT4Xq0
師匠から聞いた話だ。

匂いの記憶というものは不思議なものだ。
すっかり忘れていた過去が、ふとした時に嗅いだ懐かしい匂いにいざなわれて、鮮やかに蘇ることがある。
例えば幼いころ、僕の家の近所には大きな工場があり、
そのそばを通る時に嗅いだ、なんとも言えない化学物質の匂いがそうだ。
家を離れ、大学のある街に移り住んでからも、
どこかの工場で同じものを精製しているのか、時おり良く似た匂いを嗅ぐことがあった。
そんな時にはただ思い出すよりも、ずっと身体の奥深くに染み込むような郷愁に襲われる。
次の角を曲がれば、子どものころに歩いたあの道に通じているのではないか。そんな気がするのだ。

そんな僕にとって一番思い入れのある匂いの記憶は、石鹸の匂いだ。
どこにでも売っているごく普通の石鹸。その清潔な匂いを嗅ぐたびに、今はもういないあの人のことを思い出す。
身体を動かすのが好きで、山に登ったり街中を自転車で走ったり、
いつも自分のことや他人のことで駆けずり回っていたその人は、きっと健康的な汗の匂いを纏っていたに違いない。
けれど、僕の記憶の中ではどういうわけか、いつも石鹸の匂いと強く結びついている。

その人がこの世を去った後、その空き部屋となったアパートの一室を僕が借りることになった。
殺風景な部屋に自分の荷物をすべて運び込んで梱包を解き、一つ一つあるべき場所に配置していった。
その作業もひと段落し、埃で汚れた手を洗おうと流し台の蛇口を捻った。
コンコンコンという音が水道管の中から響き、数秒から十秒程度経ってからようやく水が迸る。
古い水道管のせいなのか、その人がいたころからそうだった。
その人はよく僕に手料理を作ってくれた。
そう言うと妙に色気があるように聞こえるが、実際は『同じ釜の飯』という方が近い。
兄弟か、あるいは親しい仲間のような関係。それが望ましいかどうかは別として。
その人は台所に立つと、まず真っ先に手を洗った。石鹸で入念に。
だから食事どきのその人は、いつもほのかな石鹸の匂いを纏っていた。


90 :未 ◆oJUBn2VTGE :2010/12/25(土) 23:52:34 ID:ANcoT4Xq0
今でも爽やかなその匂いを嗅ぐと、あのころのことが脳裏に蘇る。
痛みや焦り、歓喜や悲嘆。絶望と祈り。僕の青春のすべてが。
蛇口を捻り、水が出るまでの僅かな時間。その人は乾いた石鹸を両手で挟み、そっと擦り合わせていた。
その小さな音。それを僕は背中で聞くともなしに聞いている。ささやかなひと時。
戻れない過去はなぜこんなに優しいのだろう。
その人がいない部屋で、僕は一人蛇口から落ちていく水を見つめている。手には無意識に握った石鹸。
指の間から滔々と水は流れ落ちる。ほのかに立ち上る涼しげな匂い。
僕は蘇る記憶の流れに、しばし身を任せる。



寒い日だった。昼過ぎから僕はある使命を帯びて、オカルト道の師匠が住むアパートに乗り込んだ。
十二月も半ばを過ぎ、街中を、いや目に映る全てを一色に、いや、二色に染めているイベントが目前に迫っていた。
赤と白だ。なにもかもが。
それに伴い、僕にも焦りと若干の期待が入り混じった感情が押し寄せていた。

ドアをノックすると赤でも白でもなく、青い半纏を来た師匠が玄関口に現れて、じっと僕のことを見つめる。
いや、見つめているのは僕の手元だ。つまりスーパーの袋である。
「コロッケが大量に安売りしてたので、一緒にどうですか」と言うと、入れとばかりに顎を軽く振る。
部屋に上がらせてもらうと、炬燵布団に人型の空洞が出来ている。
その向かいに腰を下ろして足を入れ、袋からコロッケのパックを取り出す。
師匠は台所から小ぶりの鍋を持って来て、「甘酒だ」と炬燵のテーブルの上に置いた。
鍋の中には白くてどろどろしたものが、ほのかに湯気を立てている。生姜の香りがした。
お椀にとりわけてくれたそれを、コロッケを齧る合間に啜る。
ここ数日でめっきり冬らしくなったものだ。
朝方、路上に止まっていた車のフロントガラスに、霜が降りていたことを思い出す。
「こっちが普通ので、こっちがカボチャ、こっちがクリームコロッケです」
カボチャコロッケに手を伸ばす師匠を横目に、
床に散らばっている雑誌を手に取り、見るともなしにパラパラとページを捲る。


91 :未 ◆oJUBn2VTGE :2010/12/25(土) 23:54:40 ID:ANcoT4Xq0
クリスマス、どうするんですか?
それをなかなか口に出せないまま、特に会話らしい会話もなく穏やかな時間が過ぎて行く。
コロッケを三つ平らげた師匠は甘酒を片付け、
ふんふんと鼻歌を奏でながら、テーブルに向かって何かを書き始めた。
気になったので首を伸ばして覗き込むと、年賀状のようだ。
万年筆で書かれた新年の挨拶の横に、かわいらしいヘビの絵が見えた。
来年は巳年だっただろうかと一瞬考えたが、そんなはずはなかった。
「そのヘビはなんですか」
「うん? この子はカナヘビちゃんだ」
顔を上げず、師匠はペンを動かしながら答える。
どうやら干支を表す動物ではなく、自分の署名代わりのキャラクターらしい。加奈子という名前と掛けているのか。
そう言えばバイト先の興信所でも、彼女が作成した報告書の端に、こんなヘビの絵を見たことがあった気がする。
にっこり笑ったヘビが、二又に分かれた舌をチロチロさせながら、三重にトグロを巻いている絵だ。
「カナヘビちゃんですか」
「そう」
一枚書き終えて、師匠は次の宛名書きに移る。

「でもカナヘビって、トカゲの仲間じゃなかったですか」
ふと沸いた疑問を口にすると、「え?」と師匠が始めて顔を上げた。
「ヘビだろう」
「いや、ヘビって付いてますけど、確かトカゲだったような……足もあったはずですよ」
うろ覚えだが、なんとなく自信があったので言い張ってみる。
師匠は納得いなかい表情で、自分の書いた絵を見つめている。
なんだか、「キクラゲ」はクラゲなのか海草なのかで、言い争いをしたことを思い出してしまった。
その時は勝者のいない戦いだったが、今度はどうだろうか。
「カナヘビがトカゲぇ?」と鼻で笑いながら呟く師匠に、僕は「確かめてみましょうか」と言って立ち上がる。
玄関に向かい、靴をつっかけて外に出ると、冷たい風が顔に吹き付けてきた。
身体を縮めて、小走りにアパートの右隣の部屋の前まで行く。


92 :未 ◆oJUBn2VTGE :2010/12/25(土) 23:59:03 ID:ANcoT4Xq0
ドアをノックすると、「はい」という声とともに部屋の主が顔を覗かせる。
卵のようにつるんとした顔に、細い目と低い鼻、そして薄い唇が乗っかっている。
小山だか中山だか大山だか忘れたが、確かそんな感じの名前の人だった。
「どうしました」
「百科事典を貸してくれませんか」
この師匠のアパートの隣人は、普段なにをしている人なのかさっぱり分からないが、
しばしば師匠の部屋に、食べ物をたかりに来たりしていた。
師匠は基本的に追い返しにかかるのだが、当人はいたって平然と師匠の容姿を誉めそやし、口先三寸で丸め込んで、
最終的にただでさえ乏しい食料のその何分の一かをせしめるという、奇妙な人物であった。
僕は以前その彼の部屋に上げてもらった時に、百科事典が詰め込まれた棚があったことを覚えていた。
「かまいませんが、アカサタナで言うと、どこをご所望ですか」
「カ、の所をお願いします」
そう言って売れ残りのコロッケを差し出す。
「しばしお待ちを」

そうして首尾よく百科事典を借り受け、師匠の部屋に戻ると、
さっそくカナヘビのことが出ているページを開いて見せた。
小さな写真が付いている。その姿からして一目瞭然にトカゲである。
説明文を読むと、「有鱗目トカゲ亜目トカゲ下目カナヘビ科」とある。
よくは分からないが、ようするにトカゲのようだ。
写真を見る限り、普通のトカゲと比べると鱗が妙にカサカサとして油気がない印象だった。
だがもちろん手足はあるし、ヘビとは明らかに違う。
「トカゲじゃないですか」
「……」
師匠は何ごとか反論しようとしたようだが、
百科事典の背表紙を見て、それが有名な出版社のものであることを確認するや、諦めたように嘆息した。
「はいはい。私が間違えておりました。あほでした。これで良いのでございましょう」
そう言って自分の描いたヘビの絵に、申し訳程度の小さな足を四本書き添えた。
トグロを巻いたままなのでバランスが非常に悪い。
というか、手などは一見二本並んでいるのだが、よく見るとトグロの別の段から出ている。冒涜的な生物だ。
その絵に対する突っ込みを入れる前に、ふと思った。
百科事典の記事なのに、出版社次第では何か言い訳するつもりだったのかこの人は。
拗ねた様にうつむいて、年賀状の続きを書き始めたのを見て僕は腰を上げ、百科事典を返しに行った。


94 :未 ◆oJUBn2VTGE :2010/12/26(日) 00:01:42 ID:eIOkk7GA0
ドアを叩くと、小村だか中村だか大村だかという名前の隣人がにゅっと顔を出す。
「コロッケの何をお調べになったのです」
「いえ、確かにカ行ではありますが、コロッケを調べたんじゃありません」
「そうですか。カボチャコロッケもクリームコロッケもカ行ですから私はてっきり。そうですか。
 そう言えば昨日お隣を訪ねて来られた男性のお名前も、カ行から始まったような」
「もっといりますか、コロッケ」
「あ、すみません。こんなに」
「で、その男とは」
「最近またよく見るようになった方ですよ。あの背の高い」
やつか。
暗鬱な気分になった。状況をもう少し詳しく聞いたが、その気分に拍車をかけただけだった。
「あげます」
「え。全部。すみませんねどうも。これで年を越せそうです」
卵のような頭を丁寧に下げるのを呆然と見下ろしてから、師匠の部屋に戻る。

その本人は万年筆の先をペロリと舐めながら、真面目くさった顔でテーブルに向かっていた。
僕は身体にこびり付いた冷気を振り払うように、玄関口で服の裾を直すと、うっそりとコタツに入った。
「クリスマス、どうするんですか」
なんだかどうでも良くなってきて、本題を口にした。
「は?」
師匠は頭がすっかり正月へ飛んでいたのか、その単語の意味が一瞬理解できないような表情をしたが、
すぐに笑い始めた。
「おまえ、クリスマスなんか信じているのか」
小馬鹿にしたような声。
いや、まて。なにかおかしい。
「サンタクロースならともかく、クリスマスを信じるっていうその概念がおかしくないですか」


95 :未 ◆oJUBn2VTGE :2010/12/26(日) 00:03:58 ID:eIOkk7GA0
まさか、サンタどころかクリスマスというイベント自体を迷信だと親に吹き込まれてきた可哀想な子だったのか、
師匠は。
「ただの言葉の綾だ」
そう言ってまだ笑っている。
なんだかクリスマスを前に焦っているこちらの腹の内を読まれたような気がして、恥ずかしくなった。
「そう言えば、クリスマスにまつわる怪談話があるよ」
「どんな話ですか」
「実話なんだけど」
と言って師匠は、コタツの中でゴソゴソ動いていたかと思うと、脱いだばかりの靴下を床に置いた。
「おととしだったか、その前だったか、クリスマスイブに一人でいたんだよ。この部屋に。やけに寒い日だったな。
 サンタでも来ねえかなあと思って、枕元に靴下を置いといたんだ。こんな風に。
 寝る前にちゃんと戸締りして、よし、これで朝起きて靴下になにか入ってたら、サンタ確定だと。
 もちろん冗談のつもりだ。まあイベントごとだし、気分の問題だから。で、寝たわけ」
え……そこから怪談になるって、どういうことだ。まさか。
ドキドキしながら聞いていると、師匠は床に置いた靴下を手に取る。
「朝起きたら、入ってるんだよ」
「うそでしょう」
急に鳥肌が立った。思わず声が大きくなる。
「いや、本当だ。入ってたんだよ、私の足が」
師匠は真剣な表情のまま口元を押さえる仕草をする。
力が抜けた。
「寒かったせいかな。普段は冬でも靴下履かずに寝るから、寝ぼけて履いちゃったらしい」
からかわれたと知って、腹が立ってきた。もういいです、と言ってコタツに入ったまま後ろに倒れこむ。
「いや、私からしたら結構怖かったんだって」と言い訳をしていたが、やがて静かになった。
再び万年筆が紙の上を走る音。

しばしの間考えごとをした後、天井を見ながらぼんやりと言った。
「一昨年はそれとして、今年のイブはどうなんです」
ペン先の音が止まった。


96 :未 ◆oJUBn2VTGE :2010/12/26(日) 00:08:33 ID:eIOkk7GA0
二回訊いたのだ。いくらこの人でもどういう意味で訊いているのか分かっただろう。
顔は冷たく。足は温かい。
わずかな沈黙の後で、「お泊り」という単語が出てきた。
「あ、違った。お泊り」
二回言った。
その二回目は一音節ごとに区切り、しかもくねくねした動きがついていた。
「そうですか」
もういいや。帰ろう。
そう思った時、師匠が意外なことを言った。
「おまえも来るか」
「ハァ?」
思わず跳ね起きた。どうしてそうなるのだ。
僕の動きに驚いたのか、師匠の身体がビクリと反応する。
「いや、そんなに良い所じゃないぞ。鄙びた温泉宿だ」
「行きます」と取り合えず即答しておいてから疑問を口にする。
「なんでクリスマスイブに温泉なんですか」
それには深い事情があってだな。と師匠がもったいぶりながら話したところを要約すると、要するにバイトだった。
小川調査事務所という名前の興信所で師匠は調査員のバイトをしているのだが、
中でもオカルト絡みの妙な依頼を専門に請け負っていた。
たった一人の正職員にして兼所長の小川さんにしても、
そうした怪しげな依頼を積極的に求めているわけではないのだが、
今までに師匠が携わったケースの関係者からの口コミで、日増しにそんな仕事が増えつつあった。
そしてそんな口コミの大半を担っていると思われるお婆さんがいるらしいのだが、
その人の紹介でこの年の瀬に転がり込んできた依頼だった。
「婆さんが贔屓にしてる馴染みの宿ということだけど、どうも出るらしいんだな」
「出る、とは、あれですか」
「うん。これが」
師匠は両手首を引き付けてから胸の前で折った。目を細めて、にゅっと舌も出す。
「そんなに大きな旅館じゃないみたいだけど、毎年正月をそこで過ごすお得意様が何組かいるらしくてな。
 その前に、つまり年内にどうにかしたいんだと」


97 :未 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2010/12/26(日) 00:10:48 ID:eIOkk7GA0
「お祓いとかしても駄目だったんでしょうか」
「ああ。駄目だったらしい。そのあたりがちょっと訳ありみたいでな。詳しくはまだ聞いてないんだけど」
僕は指を折ってみた。年末までそれほど猶予がない。だからクリスマスに泊り込みで仕事が入っているのか。
でもどうして、僕にあらかじめその話が来なかったのだろう。
零細興信所である小川調査事務所の、バイトの助手という立派な肩書きがあるというのに。
「さすがに十代の若者に、クリスマスに仕事しろとは言えないからなあ」
「そんな……」
あなたと一緒にいなくて、なんのクリスマスか。とはさすがに言えなかった。
「じゃあ助手を一人連れて行くって言っとくから」
師匠はそれだけを告げると、また年賀状を書く作業に戻った。僕はそれを見て「そろそろ帰ります」と立ち上がる。
クリスマスイブに師匠と二人、田舎の温泉宿でお化け退治か。
真冬だというのに、身体の芯に火が入ったような感じがした。僕は半ば無意識に小さく拳を握る。
それを見た師匠が、「やる気だな。よろしく頼むよ」と気の抜けたような声で言った。


98 :今夜は ◆oJUBn2VTGE :2010/12/26(日) 00:12:26 ID:eIOkk7GA0
終わりです。
投下は年内最後になります。よいお年を。
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2011.07.29 | | コメント(1) | トラックバック(0) | 師匠編 | TOPへ

目覚め

952 :目覚め  ◆oJUBn2VTGE :2010/12/17(金) 23:26:24 ID:1sx/PKqt0
大学一回生の冬だった。
そのころアパートで一人暮らしをしていた俺は、寝る時に豆電球だけを点けるようにしていた。
実家にいたころは豆電球も点けないことが多かったが、
アパートでは一つだけあるベランダに面した窓に、厚手のカーテンをしていて、
夜はいつもそれを隙間なく締め切っていた。
だから豆電球も消していると、夜中目が覚めた時に完全に真っ暗闇になってしまい、
電球の紐を探すのも手探りで、心細い思いをすることになるのだ。
それが嫌だったのだろう。

ある夜、いつものように明かりを落とし、豆電球だけにしてベッドに倒れ込んで、眠りについた。
夜中の十二時くらいだったと思う。
それからどれくらい眠っただろうか。
意識の空白期間が突然終わり、頭が半分覚醒した。目が開いていることで、自分が目覚めたことを知る。
あたりは夜の海の底のように静かだ。天井の豆電球が仄かに室内を照らしている。何時くらいだろうか。
壁の掛け時計を見る。眼鏡がないと針がよく見えない。
短針が深夜の三時あたりを指しているようにも見えるが、
枕元のどこかにあるであろう、眼鏡を探すのもおっくうだった。
頭は覚めていても、身体はまだ命令を拒んでいる。
ぼんやりと、どうして目が覚めたのか考える。
電話や目覚まし時計の音が鳴っていた痕跡はない。尿意もない。
最近の睡眠パターンを思い出しても、実に規則的で、こんな変な時間に目が覚める必然性はなかった。
いつも割と寝つきは良く、夜中に何度も目が覚めるようなことはなくて、
朝までぐっすりということが多かったのだが……
それでもたまにあるこんな時には、得体の知れない恐怖心が心の奥底で騒ぐのを感じる。
理由はない。
あるいは、無防備に意識を途絶えさせることに対する原初的な恐怖、
ただ夜が怖い、というその本能が蘇るのかも知れない。
ベッドで仰向けのまま、もう一度眠ろうとして目を閉じる。
深く息をつくと、まどろみは自分のすぐ下にあった。

翌日、師匠に会った時に、ふと思いついたことを言ってみた。オカルトに関して師と仰いでいる人だ。
「目が覚めるとき、目を開けようと思ったかどうか、ねえ」
師匠はさほど面白くもなさそうに繰り返した。


953 :目覚め  ◆oJUBn2VTGE :2010/12/17(金) 23:29:51 ID:1sx/PKqt0
「ええ。昨日の夜中に急に目が覚めて思ったんですけど。
 目を開ける前に先に意識が覚醒していて、その覚醒した意識で『目を開けよう』と思っているのか、
 それとも、目を開けた瞬間に意識が覚醒しているのか。
 どっちなのかと思いまして」
どっちでもいいんじゃない、という顔をしたが、一応考えているようだ。
「個人的には、目を閉じたまま『あ、今夢から醒めた』と思ったことはないなあ。でも人によるんじゃない?」
「脳のどこかの反射で目が開いて、その目が開いたことで意識が覚醒する、とか」
「さあねえ。でもそれなら、目が見えない人はどうなるんだ」
そうか。そういう人たちは、夢から覚めても暗闇の中だ。つまり、目が覚める切っ掛けは視覚的なものではない。
でも普段視覚に頼っている自分たちが、その視覚を塞がれていたらどうだろうか。
眼球が外気に触れないように、完全にテープか何かで開かないようにしてから眠ってみると、
目が覚める瞬間はどのように知覚されるのか?
考えていると興味が湧いて来て、今度試してみようと思った。
「目が開くことが覚醒の切っ掛けなら、ずっと目覚めないかもよ」
師匠がいやらしいことを言う。でも、それはそれで面白いと思う自分がいた。
「でも」と、師匠が言葉を切り、そして何気ない口調で続けた。
「普段熟睡できている人が、夜中急に目が覚める理由なら知っている」

その冬休みに、俺は実家に帰省した。
洗濯や食事の準備などしなくて済むという、実家の有りがたさを味わう日々だった。

ある夜、自分にあてがわれていた和室に布団を敷いて寝ていると、夜中に目が覚めた。
天井に木目が薄っすらと見える。豆電球に照らされているのだ。
だんだんはっきりしていく頭で、ここがアパートではなく実家だったことを思い出す。
また目が覚めてしまった。ここしばらくはなかったのに。
頭を動かすのもめんどくさくて、眼球だけで周囲を見回す。すべて布団に入った時のままだ。
俺が家を出たのを幸いに、家族が荷物を放り込み、ちょっとした物置状態になっている。
そのごちゃごちゃした衣装ケースや段ボール、使わなくなった棚などが、
時が止まったようにひっそりとたたずんでいる。
それを見るともなしに見ていると、自分の中に、ある感情が湧いてくるのを感じる。
まただ。


954 :目覚め  ◆oJUBn2VTGE :2010/12/17(金) 23:36:31 ID:1sx/PKqt0
どこからともなくやってくる、正体の分からない恐怖心。なにが、ではなく、ただ、怖い。
そんな時は、枕元の眼鏡を探したくない。
何かが見えてしまうよりも、ぼんやりとした夜の海の底の世界の方がまだましだった。
しかし次の瞬間、師匠の言葉が脳裏に蘇る。
『夜中急に目が覚める理由なら知っている』
…………
確かにそう言った。
夜中に目が覚めて、どうして目覚めたのか分からない時がある。
レム睡眠とノンレム睡眠の繰り返しの中で、目が覚めやすい時間があるのか。
あるいは、自分でも気づいていない疲れで、眠りが浅くなることもあるのかも知れない。
しかし師匠はこう言うのだ。
『夜中に急に目が覚めるのは、家の外に誰かが訪ねてきているからだよ』
その言葉には、世の中の目に見えない真理を照らしているかのような、妖しい響きがあった。
布団の中で固まったまま、呼吸が少し早くなる。
静かだ。
何時くらいだろう。壁の時計は部屋の奥だ。豆電球の明かりでは暗くて見えない。
師匠の言葉の意味を考える。
誰かが家の外にきている。だから目が覚める。
そんなことを考えたこともなかった。
夜中目が覚めても、理由がなければまた眠るだけだ。わざわざ外を見に行くこともなかった。
なのに。
心臓の音が体内に響く。布団が重い。のしかかるように。
俺はゆっくりと身体を起こす。眼鏡はすぐそばにあった。空気が粘りつくように部屋を覆っている。
恐怖心。
いつもの、ただ夜を恐れる原初的なものではない。もっと、なにか、忌わしいもの。
ゆっくりと立ち上がり、摺り足で畳の軋む音を聞く。
キシ……キシ……キシ……
庭に面した窓のあたりは、板張りになっている。窓に掛かった重いカーテンが外と、内とを閉ざしている。
息をのんで、そっとカーテンの生地を掴む。窓の端から外を覗き込む。


957 :目覚め ラスト  ◆oJUBn2VTGE :2010/12/17(金) 23:43:28 ID:1sx/PKqt0
一瞬、窓ガラスの表面から夜の冷気が流れてくる。吐く息でガラスが白く曇った。
パジャマの袖でそれを拭うと、ささやかな庭と植木、そしてブロック塀の向こうの道路が見える。寝静まる住宅街。
豆電球の暗い黄色の明かりとは違う、細い針のような月の光が、かすかにそれらを照らしている。
庭を横断する石畳の筋。それを囲む背の低い芝生。その向こうに玄関の門。
誰かいる。
冷たく高まる鼓動を聞きながら、ガラスに顔を近づける。冷たい空気が頬を撫でた。
門の石柱の前に立たったまま、チャイムを鳴らすでもなく、庭に入り込もうとするでもなく、
その誰かは身動き一つしない。
『夜中に急に目が覚めるのは、家の外に誰かが訪ねてきているからだよ』
…………
一度も外を覗いたことはなかった。
本当はその度ごと、こんな風に誰かが外に立っていたのだろうか。
吐く息が冷たい。身体中が悪寒に震えている。
雲の切れ間が変わったのか、一瞬、その誰かの顔を冴えざえとした月光が浮かび上がらせた。
虚ろな顔。男。覚えはないが、なぜか懐かしい。
そう言えば小学校の同級生に、似た顔の子がいたような気がする。大きくなればこんな顔だろうか。
男は月の光に怯えたように、顔をゆっくりと左右に振る。
そして後ろを向くと、肩を落として歩み去って行った。闇の中へ。消え入るように。
近くの森に棲む山鳩の、ほうほう、という声が聞こえる。
自分が眠ってさえいれば、そして寝床から出さえしなければ、誰も知らなかったはずの光景が、そうして終わった。
カーテンを戻し、窓際を離れてもう一度布団に向かう。
知らなくていいことは、知らずにいよう。
そう思った。
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2011.07.28 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 本編 | TOPへ

土の下

732 :土の下   ◆oJUBn2VTGE :2010/09/26(日) 21:20:36 ID:Lt8tjlVs0
師匠から聞いた話だ。

大学一回生の春。僕は思いもよらないアウトドアな日々を送っていた。
それは僕を連れ回した人が、家でじっとしてられないたちだったからに他ならない。
中でも特に山にはよく入った。うんざりするほど入った。
僕がオカルトに関して師匠と慕ったその人は、
なにが楽しいのか、行き当たりばったりに山に分け入っては、獣道に埋もれた古い墓を見つけ手を合わせる、
ということをライフワークにしていた。
「千仏供養」と本人は称していたが、
初めて聞いた時には言葉の響きから、なんだかそわそわしてしまったことを覚えている。
実際は色気もなにもなく、営林所の人のような作業着を着て、首に巻いたタオルで汗を拭きながら、
彼女は淡々と朽ち果てた墓を探索していった。
僕は線香や落雁、しきびなどをリュックサックに背負い、ていの良い荷物持ちとしてお供をした。
師匠は最低限の地図しか持たず、本当に直感だけで道を選んでいくので、何度も遭難しかけたものだった。

三度目の千仏供養ツアーだったと思う。少し遠出をして、聞きなれない名前の山に入った時のことだ。
山肌に打ち捨てられた集落の跡を見つけて。師匠は俄然張り切り始めた。「墓があるはずだ」と言って。
その集落のかつての住民たちの生活範囲を、身振り手振りを交えながら想像し、
地形を慎重に確認しながら、「こっちが匂う」などと呟きつつ山道に分け入り、
ある沢のそばに、とうとう二基の墓石を発見した。
縁も縁もない人の眠る墓に水を掛け、線香に火をつけ、持参したプラスティックの筒にしきびを挿して、
米と落雁を供える。
「天保三年か。江戸時代の後期だな」
手を合わせた後で、師匠は墓石に彫られた文字を観察する。
苔が全面を覆っていて、文字が読めるようになるまでに、緑色のそれを相当削り取らなくてはならなかった。
「見ろ。端のとこ。欠けてるだろ」
確かに、墓石のてっぺんの四隅が、それぞれ砕かれたように欠けている。


733 :土の下   ◆oJUBn2VTGE :2010/09/26(日) 21:22:29 ID:Lt8tjlVs0
「地位や金銭に富んだ人の墓石の欠片をぶっかいて持っていると、賭けごとにご利益があるらしいぞ」
師匠はポシェットから小ぶりなハンマーを取り出して、コツコツと欠けている端をさらに叩きはじめた。
「ここは土台もしっかりしてるし、石も良い物みたいだ。きっと土地の有力者だったんだろう」
「でも、いいんですか」
見ず知らずの人の墓を勝手に叩くなんて。
「有名税みたいなもんだ。
 あの世には六文しか持って行けないんだから、現世のものは現世に、カエサルのものはカエサルに、だ」
適当なことを言いながら、師匠は大胆にもハンマーを振りかぶり、
砕けて落剥したものの内、ひときわ大きな欠片を、「ほら」と僕にくれた。
気持ちの悪さより好奇心の方が勝って、僕はそれを財布の中に収める。
やがて夏を迎える頃には、そんな石で財布がパンパンになろうとは、まだ思ってもいなかった。
「もっと古いのもあるかも」
師匠はその二基の墓を観察した結果、
少なくとも、その先代も負けず劣らずの有力者であり、その墓が近くに残っている可能性があると推測し、
再び探索に入った。

しかし、これが頓挫する。
日が暮れかけたころ、沢に向けて、かつて地滑りがあったと思われる痕跡を、見つけただけで終わった。
そこに墓があったかどうかは定かではない。
師匠は悔しそうな顔をして、地滑りの跡をじっと見つめていた。
その時だ。僕と師匠の立っている位置のちょうど中間の地面の落ち葉が、鈍い音と共にパッと宙に舞った。
驚いてそちらを見ると、続けざまに自分の足元にも同じ現象が起きた。
「痛」
師匠が右のこめかみのあたりを手で押さえる。
石だ。石がどこかから飛んできている。気づいてすぐに周囲を見渡すと、果たして犯人はいた。
沢の向こう岸の斜面に、猿が一匹座っている。こちらの視線に気づいて、歯茎を剥き出して唸っている。
怒っているというより、せせら笑っているような様子だった。
そして地面から手ごろな石や木片を掴むと、力任せにこちらに投げつけてくる。
遊んでいるというには強烈な威力だ。
小さなニホンザルと言っても、木から木へ両手だけで移動できる腕力だ。


736 :土の下   ◆oJUBn2VTGE :2010/09/26(日) 21:27:04 ID:Lt8tjlVs0
僕は身の危険を感じて逃げ出そうとした。
しかし師匠は一言、「痛いんだけど」と口にすると、次の瞬間、沢へ向かって駆け出した。
「なんだお前はこらぁ」と叫びながら斜面を滑り降り、
ズボンが濡れるのも構わず、バシャバシャと水をはねながら沢を渡り始める。
止める暇などなかった。
猿のイタズラにブチ切れた師匠が、相手を襲撃するという凄い絵面だ。
猿も沢の向こう側の安全地帯から、一方的に人間を攻撃しているつもりが、一転身の危険を感じたのか、
掴んでいた石を投げ捨てて、威嚇するような奇声を発した後、斜面を登って木立の中へ逃げ込んだ。
師匠も負けじと奇声を発しながら沢を渡り切り、斜面を駆け上って木立の中へ飛び込んでいった。
僕は思わずその斜面の上を見上げるが、鬱蒼と茂った木々が小高くどこまでも続いている。
猿を追いかけて、獣道もない山の奥へ分け入るなんて、正気の沙汰じゃない。
止めるべきだったと思ったがもう遅い。
師匠の名前を呼びながら、戻って来るのをただ待っているしかなかった。

猿なんだぜ。猿。
そんなことを呆然と再確認する。素手の人間が、山で猿を追いかけるなんてありえないと思った。
それに、あんな深い山の道なき道を走るなんて、
崖から落ちたり尖った竹を踏み抜いたり、考えるだに恐ろしい危険が満載のはずだった。

自分も沢を渡り、居ても立ってもいられない気持ちで、うろうろと周囲を歩き回り続け、小一時間経った頃、
ようやくガサガサと斜面の向こうの茂みが動き、師匠が姿を現した。
全身に小枝や葉っぱが絡みついている。
バランスを取りながら斜面を滑り降りる様子を見た瞬間に、僕は「大丈夫ですか」と言いながら近づいていった。
師匠は「逃げられた」と言って、顔をしかめている。
何度か転んだのか服は汚れ、顔にも擦り傷の痕があった。
しかし、右腕を見た時には、思わず「だから言ったのに!」と、言ってもいないことを非難しながら駆け寄った。
師匠は暑いからと、上着の袖を捲り上げていたのだが、
その剥き出しの右腕の肘から下にかけて、かなりの血が滴っているのだ。
新しいタオルをリュックサックから取り出して、すぐに血を拭き取る。
師匠はその血に気づいてもいないような様子で、いきなり手を取った僕を邪険に振り払った。


738 :土の下   ◆oJUBn2VTGE :2010/09/26(日) 21:30:33 ID:Lt8tjlVs0
「なんだおい。大丈夫だよ」
「大丈夫なわけないでしょう」
とにかく傷の様子を確かめようと、もう一度無理やり腕を掴む。
あれ?傷が……ない。
顔にもあるような擦り傷くらいしか。
呆然とする。
だったらこの血は?
拭ったタオルにはべっとりと血がついている。見間違いではない。
「大丈夫だって言ってるだろ」
師匠は乱暴に腕を振り払うと、捲り上げていた袖を元に戻し、沢を渡り始めた。
僕はしばらく、タオルの血と師匠の背中を見比べていたが、
やがて「見なかったことにしよう」と結論付けて、手の中のタオルを投げ捨てた。
考えるだに恐ろしいからだ。
そして「待ってください」と、その背中を追いかける。

師匠はまだまだやる気満々で、それから日が完全に暮れるまでに、さらに二箇所で墓を発見した。
山歩きに慣れた人の後ろをついて行くだけで僕は息が上がり、「もう帰りましょう」と何度も訴えたが、
そんな言葉など無視して、「こっちだ」と道なき道を迷わず進まれると、
溜め息をつきながら、追いすがらざるを得ないのだった。
山道の傍で見つけた最後の墓は墓名もなく、小さめの石を二つ重ねただけのもので、
そうと言われなければ気づかなかったに違いない。
師匠は手を合わせたまま呟いた。
「こんな小さなみすぼらしい墓を見るとさ、なんか嬉しくなるな」
「なぜです」
意外な気がした。
「金が無かったのか、縁が無かったのか……
 もしかしたら、名前も付けられないまま死んだ子どもだったのかも知れない」
「きちんとした墓を建ててもらえなかった人のことが、なぜ嬉しくなるんです」
師匠は静かに顔を上げる。



739 :土の下   ◆oJUBn2VTGE :2010/09/26(日) 21:34:41 ID:Lt8tjlVs0
「それでも、その人がいたという証に、こんな小さな墓が残っている」
苔むした石の台座に線香が二本。煙がゆったりと立ち上っている。師匠は腕を伸ばし、線香に水を掛けた。
「こうして手を合わせる人だって、気まぐれにやってくる」
さあ帰ろうか、と言って立ち上がった。僕も慌ててリュックサックから出したものを片付ける。
帰り道は真っ暗で、持参していた懐中電灯をそれぞれ掲げた。
来た時とは違う道だ。師匠は近道のはずだと言う。
足元にも気を付けつつ、師匠の背中を見失わないように、見通しの悪い下り坂を慎重に歩いたが、
心はさっきの小さな墓に繋ぎ止められていた。
(その人がいたという証か……)
死は死を死なしむ、という言葉がふいに浮かんだ。誰かの詠んだ歌だったか。
人が死ぬということは、その人の心の中に残っている、かつて死んだ近しい人々の記憶が、
もう一度、そして永遠に揮発してしまうということだ、という意味だったと思う。
さっきの墓の主も、きっともうなんの記録にも、そして誰の記憶にも残っていないだろう。
それでも石は残る。
その意味を考えていた。
ぼうっとしていると、師匠の声が遠くから聞こえた。
「おい」
我に返ると、師匠が道の途中で立ち止まり、藪の切れた脇道の方に懐中電灯を向けていた。
「どうしたんです」
横顔が、心なしか緊張しているように見える。
「自殺だ」
「えっ」
驚いて駆け寄る。
草が生い茂り、一見しただけは道だと思わないような場所に、誰かが通ったような痕跡が確かにある。
踏まれて倒れた草の向こうに、懐中電灯を向ける。
師匠と僕の二つの光が交差し、照らし出される先には、宙に浮かぶ人影があった。
首吊りだ。
思わず生唾を飲み込む。
窪地の木の下に、人がぶらさがっている。


740 :土の下   ◆oJUBn2VTGE :2010/09/26(日) 21:38:32 ID:Lt8tjlVs0
ガサリと音がして、横にいた師匠がそちらに向い動き出す。止める間もなかった。
僕は一瞬怯んだ。
ひと気のない夜の山中に、人の形をしたものが、人工の明かりに照らされて空中にある、
ということが、これほど怖いものだとは。
まだしも、ぼんやりとした霊体を見てしまった、という方がましな気がした。
それでも、師匠の背中を追って足を踏み出す。軽い下り坂になっている。
青っぽいポロシャツにジーンズという服装が、ほぼ正面に現れる。その姿が、後ろ向きであることに少しホッとした。
さらに坂を下り近づいて行くと、かなり高い位置に足があることに気づく。背伸びをしても靴に手が届かない。
死体のベルトの位置に、張り出した枝が一本。
きっとあそこまで木登りをして、枝に足をかけた状態から落下したのだろう。
恐れていた匂いはない。
春とはいえこの気温の高さだから、二、三日も経っていれば腐敗が進んでいるはずだ。
首を吊ってから、それほど時間が経っていないのかも知れない。
だが、シャツから出ている手は嫌に白っぽく、血の通った色をしていなかった。
師匠は前に回り込んで、首吊り死体の顔のあたりに懐中電灯を向けている。
そして「おお」という短い声を発して、気持ち悪そうに後ずさった。
僕は同じことをする気にはなれず、その様子を見ているだけだった。
やがて、一頻り死体を観察して満足したのか、師匠は変に弾んだ足取りで、その周囲をうろうろと歩き回り始めた。
「下ろしてあげた方がいいでしょうか」
僕はそう言いながらも、あの高さから下ろすのはかなり難しそうだと考えていた。
高枝切バサミかなにかでロープを切るしかなさそうだ。
「まあ待てよ」
師匠はなにか良からぬことを企んでいるような口調で、腰に巻いたポシェットの中を探り始めた。
さっきまで、見ず知らずの人の小さな墓に、手を合わせていた人間と、同一人物とは思えない態度だ。
この二面性が、らしいといえばらしいのだが。
「お、偉い、自分。持ってきてた」
おもちゃの様な小さなスコップが出てきた。師匠はそれを手に、首吊り死体の真下のあたりにしゃがみ込む。
そして、右手にスコップを振りかざした状態で、くるりと首だけをこちらに向ける。
「面白いことを教えてやろう」


742 :土の下   ◆oJUBn2VTGE :2010/09/26(日) 21:45:27 ID:Lt8tjlVs0
その言葉にぞくりとする。腹の表面を撫でられたような感覚。
ズクッと、土の上にスコップが振り下ろされる。
落ち葉ごと地面が抉られ、立て続けにその先端が土を掘り返していく。
「こんぱくの意味は知っているな」
手を動かしながら師匠が問い掛けてくる。
魂魄?たましいのことか。
確か『魂(こん)』の方が心というか、精神のたましいのことで、
『魄(はく)』の方は、肉体に宿るたましいのことだったはずだ。
そんなことを言うと、師匠は「まあそんな感じだ」と頷く。
「中国の道教の思想では、魂魄の『魂』は陰陽のうちの陽の気で、天から授かったものだ。
 そして『魄』の方は陰の気で、地から授かったもの。
 どちらも人が死んだ後は、肉体から離れていく。だけどその向かう先に違いがある」
口を動かしながらも、黙々と土を掘り進めている。
僕はその姿を少し離れた場所から、懐中電灯で照らしてじっと見ている。
師匠の頭上には山あいの深い闇があり、その闇の底から、人の足が悪い冗談のようにぶらさがって伸びている。
寒気のする光景だ。
「天から授かった『魂』は、天に帰る。そして地から授かった『魄』は、地に帰るとされている。
 現代の日本人はみんな、人が死んだあとに、たましいが抜け出て天へ召されていくという、
 テンプレートなイメージを持っているな。
 貧困だ。実に」
なにが言いたいんだろう。ドキドキしてきた。
「別に、『人間の死後はこうなる』ってハナシをしたいんじゃないんだ。
 ただ、経験でな。何度かこういう首吊り死体に出くわしたことがあるんだ。
 そんな時、いつもある現象が起こるんだよ。それがなんなんだろうと思ってな」
スコップを振る腕が力強くなってきた。
「同じ首吊りでも、室内とか、アスファルトやらコンクリの上だと駄目なんだよな。
 だけどこういう……土の上だと、たいてい出てくるんだ。死体の真下から」
ひゅっ、と息が漏れる。
自分の口から出たのだと、しばらくしてから気づく。
さっきまで汗にまみれていたのが嘘のように、今は得体の知れない寒気がする。
「お。出たぞ。来てみろ」
師匠がスコップを放り投げ、地面に顔を近づける。


743 :土の下   ◆oJUBn2VTGE :2010/09/26(日) 21:49:21 ID:Lt8tjlVs0
なんだ。なにが土の下にあるというのだ。
動けないでいる僕に、師匠は土の下から掬い上げたなにかを右の手のひらに乗せ、
こちらに振り向くや、真っ直ぐに鼻先へつきつけてきた。
茶色っぽい。なにかとろとろとしたもの。指の隙間から、それが糸を引くようにこぼれて落ちていく。
「なんだか分かるか」
口も利けず、小刻みに首を左右に振ることしかできない。
「私にも分からない。でも、首吊り死体の下の地面には、たいていこれがある。
 これが場所や民族、人種を超えて普遍的に起こる現象ならば、
 観察されたこれには、なにか意味があるものとして、理由付けがされただろうな。
 ……例えば、『魄』は地に帰る、とでも」
とろとろと、それが指の間からしたたり落ちていく。まるで、意思を持って手のひらから逃れるように。
「日本でもこいつの話はあるよ。『安斎随筆』だったか、『甲子夜話』だったか…… 
 首吊り死体の下を掘ったら、こういうなんだかよく分からないものが出てくるんだ」
師匠は左目の下を、もう片方の手の指で掻く。
嬉しそうだ。尋常な目付きではない。
僕は自分でも奇妙な体験は何度もしたし、怪談話の類はこれでも結構収集したつもりだった。
なのにまったく聞いたこともない。
想像だにしたことがなかった。首吊り死体の下の地面を掘るなんて。
なぜこの人は、こんなことを知っているんだ。
底知れない思いがして、恐れと畏敬が入り混じったような感情が渦巻く。
「ああ、もう消える」
手のひらに残っていた茶色いものは、すべて逃げるように流れ落ちてしまった。
手の下の地面を見ても、落ちたはずのその痕跡は残っていない。どこに消えてしまったのか。
「地面から掘り出すと、あっと言う間に消えるんだ。もう土の下のも全部消えたみたいだ」
師匠はもう一度スコップを手にして、土にできた穴の同じ場所に二、三度突き入れたが、やがて首を振った。
「な、面白いだろ」
そう言って師匠が顔を上げた瞬間だ。
強い風が吹いて、窪地の周囲の木々を一斉にざわざわと掻き揺らした。思わず首をすくめて天を仰ぐ。


745 :土の下  ラスト  ◆oJUBn2VTGE :2010/09/26(日) 21:55:09 ID:Lt8tjlVs0
ハッとした。
心臓に楔を打ち込まれたみたいな感覚。
地面に向けている懐中電灯の明かりにぼんやりと照らされて、宙に浮かぶ首吊り死体の足先が見える。
朽ちたようなジーンズと、その下の履き古したスニーカーが先端をこちらに向けている。
さっきまで、死体は背中を向けていたはずなのに。
懐中電灯をじわじわと上にあげていくと、死体の不自然に曲がった首と、俯くように垂れた頭がこちらを向いている。
髪がボサボサに伸びていて、真下から覗き込まないと顔は見えない。
風か。風で裏返ったのか。
背筋に冷たいものが走る。
首を吊ったままの身体は、その手足が異様に突っ張った状態で、頭部以外のすべてが真っ直ぐに硬直している。
風でロープが捩れたのなら、また同じように今度は逆方向へ捩れていくはずだ。
そう思いながら息を飲んで見ているが、首吊り死体は垂直に強張ったまま動く気配はなかった。
その動く気配がないことが、なにより恐ろしかった。
僕の感じている恐怖に気づいているのかいないのか、師匠はこちらを向いたまま嬉々とした声を上げる。
「どっちだろうな」
そう言ってニコリと笑う。
どっちって、なんのことだ。
天を仰いでいた顔を、ゆっくりと師匠の方へ向けていく。首の骨の間の油が切れたようにギシギシと軋む。
「誰かが首を吊って死んだから、さっきのへんなものが土の下に現れるのか。それとも……」
師匠はそう言いながら、自分の真上を振り仰いだ。
そして、頭上にある死体の顔のあたりを、真っ直ぐに見る。視線を合わせようとするように。
「あれが土の下にあるから、人がここで首を吊るのか」
なあ、どっちだ。
そう言って死体に問い掛ける。
肩が手の届く位置にあれば、親しげに抱いて語り掛けるような声で。
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