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貯水池

512 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 22:42:57 ID:gAYKdkL30
大学1回生の秋だった。
その頃の僕は以前から自分にあった霊感が、じわじわと染み出すようにその領域
を広げていく感覚を半ば畏れ、また半ばでは身の震え るような妖しい快感を覚え
ていた。
霊感はより強いそれに触れることで、まるで共鳴しあうように研ぎ澄まされるよ
うだ。僕とその人の間には確かにそんな 関係性があったのだろう。それは磁石に
触れた鉄が着磁するのにも似ている。その人はそうして僕を引っ張り上げ、また
その不思議な感覚を持て余すことのない ように次々と消化すべき対象を与えてく
れた。
信じられないようなものをたくさん見てきた。その中で危険な目にあったことも
数知れない。その頃の僕には その人のやることすべてが面白半分の不謹慎な行動
に見えもした。しかしまた一方で、時折覗く寂しげな横顔にその不思議な感覚を
共有する仲間を求める孤独な素 顔を垣間見ていたような気がする。
もう会えなくなって、夕暮れの交差点、テレビのブラウン管の前、深夜のコンビ
ニの光の中、ふとした時に思い出すその人の 顔はいつも暗く沈んでいる。勝手な
感傷だとわかってはいても、そんな時僕は何か大事なものをなくしたような、と
ても悲しい気持ちになるのだった。
「貯 水池の幽霊?」
さして面白くもなさそうに胡坐をかいて体を前後左右に揺する。それが師匠の癖
だった。あまり上品とは言えない。
師匠と呼び始めたのはい つからだっただろうか。オカルトの道の上では、何一つ
勝てるものはない。しかし恐れ入ってもいなかった。貶尊あい半ばする微妙な呼
称だったと思う。
「 そうです。夕方とか夜中にそこを通ると、時々立ってるんですよ」

513 追跡  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 22:44:50 ID:gAYKdkL30
その日、僕は師匠の家にお邪魔していた。築何十年なのか聞くのも怖いボロアパ
ートで、家賃は1万円やそこららしい。部屋の中に備え付けの台所から麦茶を沸
かす音がシュンシュンと聞こえている。
「近くに貯水池なんてあったかな」
「いや、ちょっと遠くなんですけど。バイト先からの帰り道なんで」
行きに は陽があるせいか出くわしたことはない。
「高校のプール10コ分くらいの面積に、周囲には土の斜面があってその周りを
ぐるっと囲むようにフェンスがありま す。自転車をこぎながらだと貯水池は道
路から見下ろすような格好になって、行きにはいつもなんとなくフェンスのそば
に寄って水面を眺めながら通り過ぎ てます。それが結構高いフェンスなんです
けど、帰りにそのこっち側、道路側に時々出るんですよ」
はじめは人がいると思って避けて通ろうとしたのだが、横切 る瞬間の嫌な感覚は、
これまで何度も経験した独特のものだった。
それは黒いフードのようなものを頭からかぶっていて男か女かも判然としない。た
だ足元 にはいつも水溜りが出来ていて、フードの裾からシトシトと水が滴ってい
る。晴れた日にもだ。
(関わらないほうがいい)
それは信じるべき直感だったが、 かといって道を変えるほど素直でもなかった。
それからはバイト帰りには必ず道の反対側を通るようにしている。といっても1車
線の、あまり広いとはいえない 道なので嫌が応にも横目で見る形ですれ違うこと
になる。気分が良いはずはない。
一度師匠をけしかけてみようと虫の良いことを思いついたのだが、どうやらあま り
琴線に触れる内容ではなかったようだ。正直に「ナントカシテ」と言うのも情けない。


514 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ 513は追跡ではないです。 New!
2007/09/26(水) 22:46:52 ID:gAYKdkL30
少しがっかりしながら、3回に1回くらいは向こう側に出ることもあると付け加え
た瞬間、師匠の体の揺れがピタリとおさまった。
「なんて言った?」
「いや、だからフェンスのこっち側の時と向こう側の時があるって話です。立ち位
置が」
師匠は首を捻りながら、へぇえと言った。僕は大学の授業で習っている 中国語のピ
ンインのようだと、見当違いなことを思った。第四声だったか。下がって上がるやつ。
「物理的な実体を持たない霊魂にとってフェンスという障害物 なんてあってもなく
ても同じだから、こっちか向こうかなんて大した違いはなさそうに思えるかも知
れないけど……実体を持たないからこそ"ウチ"か"ソト" かっていうのは不可逆的
な要素なんだ。場についてる霊にとっては特にね」
だから地縛霊って言うんだ。
師匠はようやく乗り気になったようで、声のトー ンが上がってきた。
「なにかあるね」
体の揺れの代わりに、左目の下を触る癖が顔を出した。そこには薄っすらとした
切り傷の跡がある。興奮してきた時に はなぜか少し痒くなるらしい。何の傷かは
知らない。
じっと見ていた僕に気づいて、師匠は「嫁にもらってくれるか」と冗談めかして
言う。
とにかく 、その貯水池に夜になったら行ってみようということになった。
しかし僕にとっては思った通りの展開だと、手放しで喜ぶわけにはいかない。な
にか得体の知れな い不気味な気配が、貯水池の幽霊の話から漂い始めているよう
な気がしていた。

516 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 22:48:06 ID:gAYKdkL30
そのあと、師匠が作った夕飯のご相伴に預かったのだが、これが酷い代物で、な
にしろ500グラム100円のパスタ麺を茹でてその上に何かの試供品でもらっ
たという聞いたこともないフリカケをかけただけという、料理とも言えないよう
なものだった。
毎日こんなものを食べてるんですか、と訊くと「今はダイエッ ト中だから」とい
う真贋つきかねる回答。
家賃も安いし、一体何に金をつかっているのやら、と余計な詮索をせざるを得な
かった。
あっという間に食 べ終わってしまい、師匠は水っ腹でも張らすつもりなのか麦茶
をがぶ飲みし、トイレが近くなったようだった。
「僕もトイレ借ります」
と言って、戻ってき た師匠と入れ違いに部屋を出る。このクラスのアパートだと
トイレは普通、共有なのだろうがなぜかここには専用のトイレがある。ただし一
度玄関から外に出な いと行けないという欠陥を持っていた。生意気に洋式ではあ
ったが、これがおもちゃのようなプラスチック製で、なるほどダイエットでもし
ていないといつかぶち 壊れそうな普請だった。
便座を上げて用を足しながら(冬は外に出たくないだろうなあ)と、すでに秋も
半ばというほのかな肌寒さにしばし思いを馳せた。
戻ってくると、師匠が上着をまとって「さあ行くか」と立ち上がった。
「雨、降りそうですよ」
「うん。車で行こう」
師匠の軽四に乗り込んだ時には、日は すっかり暮れていた。そして走り出して1
00メートルと行かないうちにフロントガラスを雨の粒が叩き始める。
「稲川淳二でも聞こう」

518 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 22:50:59 ID:gAYKdkL30
カーステレオからカツゼツの悪い声が流れてくる。師匠は完全に稲川淳二をギャ
グとしてとらえていて、気分が沈みがちな時にはその怪談話をケラケラ笑いなが
ら聞き流してドライブするというのが常だった。
僕はその頃まだ稲川淳二を笑えるほどスレてはいなく、その独特の口調による怪
異の描写に少しゾクゾクしな がら助手席で大人しくなっていた。
雨の降り続く中を車は走り、やがて貯水池のある道路にさしかかった。
師匠はギアを2速に落とし、2メートルあまりの高さの フェンスを左手に見なが
らそろそろと進む。
雨が車の窓やボンネットに跳ねる音と、ワイパーがガラスを擦るキュッキュッ、と
いう音がやけに大きく響き、 僕は少し心細くなってきた。
「あれかな」
師匠の声に視線を上げると、車のライトに反射する雨粒の向こうに人影らしきもの
が見えた。だんだんと近づくに つれ、それがフェンスの向こう側にいることに気
づく。近くに民家もなく、人通りもない。そこに雨の中、まして夜に一人で貯水
池に佇んでいる人影が、まとも な人間だとは思えない。少なくとも僕の良く知る
世界のおいては。
さらにスピードを落として車は進む。そしてあと10メートルという距離に来た
時、意表 を突かれることが起こった。
そのフードをすっぽりとかぶった人影が、右手を挙げたのである。
まるで「乗せてくれ」と言いたいかのように。
僕の知る世界 において馴染みのある仕草に一瞬混乱し、次に起こった思いは「乗
せてあげないといけない」という至極当然の人間心理だった。
雨の中、困っている人がいたらた とえタクシーでなくとも乗せてあげるだろう?
その、一見すると正しいように見える着想は、口にしたとたん次の瞬間師匠の一言
に掻き消された。

521 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 22:52:20 ID:gAYKdkL30
「あれはヤバイ」
緊迫した声だった。
クラッチを踏んで、バックするべきか、刹那の迷いのあとで師匠の足は全開でア
クセルを踏み込んでいた。
背 もたれに押し付けられるような加速に息を詰まらせ、心臓がしゃっくりあげる。
「どうしたんですか」
ようやくそれだけを言うと、助手席の窓から右手を挙げたま まの黒い人影がフェ
ンスの向こうに立っている姿が一瞬見えて、そしてすぐに後方へ飛び去って行っ
た。顔も見えない相手と、なぜか目が合ったような気がした。
「雨に濡れて途方にくれてるヒトが、なんでフェンスの向こう側にいるんだ」
人間じゃないんだよ!
そんな言葉が師匠の口から迸った。
フェンスは高い 。上部には鉄条網もついている。そして貯水池に勝手に入り込め
ないように、唯一の出入り口は錠前に固く閉ざされている。
その向こう側に、車に乗せて欲しい人 がいるはずは、確かにないのだった。
そんな当然の思考を鈍らされ、僕一人ならそのまま確実に心の隙につけこまれ
ていた。
ゾッとする思いで、呆然と前方 を見るほかはなかった。しかしすぐに気を奮い立
たせ、後ろを振り返る。リアウインドの向こうは暗い闇に閉ざされ、もう何も見
えない。そう思った瞬間に、な んとも言えない悪寒が背筋を走り、視線が後部座
席のシートにゆっくりと落ちた。
表面が水で濡れて、かすかに光って見える。
女が忽然と車中から消える、 濡れ女という怪談が頭をよぎり、つい最近読んだの
はあれは遠藤周作の話だったかと思考が巡りそうになったが、脊髄反射的に出た
自分の叫び声に我に返る。
「乗せてなんかいないのに!」

523 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 22:54:23 ID:gAYKdkL30
僕の言葉に、師匠も首を捻って後部座席を一瞥する。そして、ダッシュボードから
雑巾を取り出したかと思うとこちらに放り、「拭いといて」と言った。
唖然 としかけたがすぐに理性が反応し、座席を倒して腫れ物に触るような手つき
で後部座席のシートの水を拭き取ると、師匠の顔を見て頷くのを確認してから手
動で くるくるとウインドガラスを下げ、開く時間も惜しんでわずかな隙間から外
へとその雑巾を投げ捨てた。
まだ心臓がドキドキしている。
手についた少量の水 分を、おぞましい物であるかのようにジーンズの腿に擦り付
ける。
車は、すでに対向車のある広い道に出ている。それでも嫌な感覚は消えない。動
悸が早く なったせいか、車のフロントガラスが曇りはじめた。
「これはちょっと凄いな」
師匠の口調は、すでに冷静なものに戻っている。しかし、その言葉の向かう先を見
て、僕の心臓は再び悲鳴をあげる。
フロントガラス一面に、手の平の跡が浮かび上がって来たのである。
外側ではない。ワイパーが動いている。
内側な のだ。
フロントガラスの内側を撫でると皮脂がつくのか、そのままでは何も見えないが、
曇り始めたとたんにその形が浮かび上がって来ることがある。
まさ にそれが今起こっている。
けれど、やはり僕らは乗せてなんかいないのだった。貯水池の幽霊なんかを。
師匠は自分の服の袖で正面のガラスを、一面の手の平の跡 を拭きながら、「やっぱ
り捨てなきゃ良かったかな、雑巾」と言った。

641 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/27(木) 05:36:42 ID:FJxftP2t0
カーステレオからは稲川淳二の唾を飲み込むような声が聞こえてきた。話を聞いて
なんかいなかった僕にも、これから落とすための溜めだということが分か った。や
はり僕にはまだ笑えない。情けないとは思わなかった。怖いと思う心は防衛本能そ
のものなのだから。けれど一方で、その恐怖心に心地よさを覚える自 分もいる。
師匠がチラッとこちらを見て、「オマエ、笑ってるぞ」と言う。僕は「はい」とだ
け答えた。
その夜はそれで解散した。「ついてきてはないよう だ」という師匠の言葉を信じた
し、僕でもそのくらいは分かった。
3,4日経ったあと、師匠の呼び出しを受けた。夜の10時過ぎだ。
自転車で師匠のアパ ートへ向かい、ドアをノックする。「開いてる」という声に、
「知ってます」と言いながらドアを開ける。
師匠はなぜかドアに鍵を掛けない。
「防犯って言 葉がありますよね。知ってますか」と溜息をつきながら部屋に上がる。
師匠は「防犯」と言って壁に立てかけた金属バットを指さす。なんか色々間違って
る人だが 、いまさら指摘するまでもない。
「ここ家賃いくらでしたっけ」と問うと、「月一万円」という答えが返ってくる。
ただでさえ安いアパートで、この部屋で変死 者が出たという曰くつきの物件である
ためにさらに値引きされているのだそうだ。
「あの貯水池、やっぱり水死者が出てたよ」
本当に師匠はこういうことを 調べさせたら興信所並みだ。
言うには、あの貯水池で数年前に若い母親が生まれたばかりの自分の赤ん坊と入水
自殺したのだそうだ。まず赤ん坊を水に沈めて殺 しておいて、次に自分の着衣の中
にその赤ん坊と石を詰めて浮かび上がらないようにして、足のつかない場所まで行っ
て溺れ死んだという話だ。

526貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 22:57:47 ID:gAYKdkL30
「じゃああれは、その母親の霊ですか」
「たぶんね」
では何故迷い出てきたのだろう。
「死にたくなかったからじゃないか」
師匠は言う。
死 にたくはないけれど、死ななくてはならないと思いつめていた。その死にたく
ないという思いを押さえ込むための重しが、服に詰めた赤ん坊の死体であり石だっ
た 。そしてそれは死んだのちも、この世に惑う足枷となっている……
「フェンスのウチかソトか、っていうのはそのアンヴィヴァレントな不安定さの
せいだね。 乗せてくれという右手と、乗ってはいけないというフェンスの内側
という立ち位置」
「車に乗せてたら成仏してたわけですか」
「さあ」
乗せてみたら わかるんじゃないかな……
師匠の言葉はどうしてこんなに蠱惑的なのか。僕はもう今夜呼び出された目的を理
解していた。
「じゃあ行こうか」
師匠が車 のキーと金属バットを持って立ち上がる。
いくらなんでもそれは、職質されたらまずいですよ、と言う僕に師匠は「野球好き
に見えないかな」と冗談めかし、「 鏡を見て言ってください」と返したが、そもそ
もそういう問題なのかという気がして、「なんの役に立つんですか」と重ねるも、
「防犯」というシンプルな答え。
もういいや、なんでも。
僕も覚悟を決めて師匠の車に乗り込んだ。今日は雨が降っていない。

528 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 22:59:17 ID:gAYKdkL30
「稲川淳二でも聞こう」
夜のドライブにはやはりこのBGMしかない。僕もすでに洗脳されつつあるらしい。
「あの手の平。フロントガラスの。あれ、2種類 あったよね」
「え?」
「いや、気づいてないならいい」
師匠はあの異常な状況下でも、ガラスに浮かび上がった手の平の形を冷静に判別
していたのだろ うか。
「それって、どういう……」と問いかけた僕に、淳二トークのツボに入った師匠
の笑い声がかぶさり、そのままなおざりにされてしまった。
車は前回 と同じ道をひた走り、同じルートで貯水池へアプローチを始めた。
今夜は視界が良い。月も出ている。
同じ場所から減速をはじめ、師匠は「今日も出るかな」と言 いながらハンドルを
ソロソロと操作する。
いた。
黒いフード。夜陰になお暗い、この世のものではない儚げな存在感。
その姿はまた今度もフェンスの内 側にあった。そして右手を挙げている。
緊張が高まってくる。
車はその目前で停まり、エンジンをかけたまま師匠が降りる。慌てて僕もシート
ベルトを外す 。
師匠がフェンスの格子越しに黒い影と向かい合っている。
手には金属バット。空には月。
「乗る?」
あまりに直截すぎて、間が抜けて聞こえるが、 師匠は師匠なりに緊張しているの
が声の震えで分かる。
土の上に、なにか重いものが落ちる音がした。

529 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ ウニ New!
2007/09/26(水) 23:00:19 ID:gAYKdkL30
フードの足もとに滴る水に混じって、黒い石が落下している。右手は挙げたままだ。
一度は遁走した霊を相手に、もう一度近づくだけならまだしも車に乗るように 語
り掛けるなんて、正気の沙汰ではない。
黒い影から石が落ちるのが止まった。
風が凪いだような空白の時間があった。
しかし次の瞬間、貯水池の水 面がさざめいたかと思うと、なにか小さい黒いもの
が水の中から斜面に這い上がり、あっという間もなく黒いフードの影の背後から
その足元に絡み付いた。
息をのむ僕の目の前で、黒い影が斜面を引きずられるようにして貯水池の方に引
っ張られていく。挙げていた右手がそのまま、まるで助けを求めるようにこちら
に 突き出されている。
そして音もなく影は暗い水の中に引きずり込まれていき、気がついた時には微かな
波紋が月の光に淡く残るだけだった。
静寂が訪れる。
僕らはフェンスに掻きつくように近づく。しかし、目の前には何事もないただの
夜の貯水池の静かな情景が月明かりの下に広がっているだけだった。
僕の肺は 急に小さくなってしまったようだ。息が、苦しい。
やがて師匠が口を開いた。
「フロントガラスの手の平は、大きい手と小さい手と二通りあった。多分小さい
方が心中で先に殺された赤ん坊のものだろう」
母親の魂がこの世界を離れるのを、あの赤ん坊が留めているんだな。死んだ後も、
その重石としての役割を果た して。
師匠の言葉に、さっき見た小さい黒いものが赤ん坊の姿かたちをしていたような
イメージが脳裏をよぎる。
では、あの二人はこの貯水池に永遠に縛ら れたままなのか。

530 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ またやったorz この専ブラ使い辛い New!
2007/09/26(水) 23:01:32 ID:gAYKdkL30
その絶望的な想像に、僕はしゃがみこんだ。俯いて地面だけを見ている。
師匠は何を考えているのだろう。
僕には分からない心中という道を選んだ母親の心を 想像しているのだろうか。
少し、寒くなってきた。車から、つけっぱなしの稲川淳二の声が微かに流れてくる。
師匠はそれが聞こえていたのか、ふいにクスッと 笑うと踵を返して「バッテリー
があがる。帰ろう」と言った。
師匠の、フェンスを握っていた指が離れたのか、カシャンという音が響き、僕も
我に返って振 り向きながら立ち上がった。その次の瞬間。
目の前に、壁があることに気がついた。
いびつな菱形をした金網の格子。それが僕の体にぶつかったのだ。
格子 の向こうには、車のライトとそこへ歩いてく師匠の背中がある。
鳥肌が全身に立つ。心臓が早鐘のように鳴る。
いつの間に、僕は、フェンスの内側にいたのか。
「師匠ーっ!」
格子に指をかけながら、思い切り叫んだ。
その瞬間、師匠は振り返り、目を剥いて僕を見た。
「いつの間に中に入った」
自然、声が 大きい。
入ってなんかいない。どうやってこの鉄条網つきの高いフェンスの内側に入れる
というのか。……けれど確かにここはフェンスの内側なのだ。
ばち ゃん。
という音がして、背後を見た。
貯水池の黒々とした水面に、なにか手のようなものが突き出されている。それが
地面を掴み、ヌルヌル光る泥のような ものを纏いながら這い上がろうとしていた。

535 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 23:05:08 ID:gAYKdkL30
「退いてろ」
という声とともに、師匠の金属バットがフェンスを殴打する。
しかし小さな火花が散っただけで、衝撃は波のように左右へ広がるだけだった。
べちゃんべちゃんという気持ちの悪い音が地面を叩き、小さくて黒いものが斜面
をよじ登ってくる。
「出入り口は!」
「反対側です」
心臓が止まり そうな恐怖を味わいながらも、僕は正確に答えた。
「でも金属の鍵が掛かってます」
「フェンスの下を掘れないか」
「無理そうです」
師匠の舌打ちが聞 こえた。
サッと走り去る気配。
僕はくだけそうになる足腰を、かろうじて支えながら貯水池に正対した。斜面に
泥の跡を残しながら、小さくて黒いものがこ ちらに這って来ている。黒いフード
の人影にはあった、わずかなヒトの意思というものが、この小さい黒いものから
は一切感じられない。
ただ、怖いもの。 危険なもの。嫌なもの。そして絶対に助からないもの。
水面から続く泥の筋が、まるで臍の緒のように伸びている。
僕は混乱する頭で、なにをするべきか考えた。
母親の魂が救われる手助けをしようとしたから、こうなったのか。
だったら、もうそんなことはしないということを伝えなければ。
そう思っても、その小さく て黒いものに向かうと何故か声が掠れて出てこないの
だった。

537 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 23:06:27 ID:gAYKdkL30
貯水池のまわりを走り回って逃げる?
閉じられたフェンスの囲いの中でずっとそうしてるというのか。
僕は心が折れていくのを感じていた。
ジーンズの お尻が冷たい土の感触にふれ、(ああ僕はもう座り込むしかないんだ
な)と現実から乖離したような思考がふわふわと漂った。
次の瞬間、轟音がした。
タイ ヤがアスファルトを引っ掻く音とともに、車のフロントがフェンスに突っ込
んできた。
金属の焦げたような匂いがして、フェンスが風を孕んだように大きくひしゃ げて
いる。たわんだ金網の破れ目から何かを叫びながら師匠が手を伸ばした。
僕はその瞬間に立ち上がり、金属の鋭利な突起に服を引っ掛けながらも脱出する
ことに成功する。
すぐに車はタイヤをすり減らしながら、強引にバックで金網から抜け出し、僕を助
手席に乗せて走り出した。
後ろは振り返らなかった 。
そのわずかな間に色々なことを考えたと思う。でももう覚えていない。
そして僕は助かった。
師匠のアパートに戻ってきた時、鍵も掛けてないドアをあっ さりと捻ると、なぜ
だか笑いが込み上げてきた。
このオカルト道の先達にとって、本当に怖いものは鍵など通用しない存在なのだ
と、今さらながら気づいた のだ。ドアはドアでありさえすればよく、鍵は緊急時
の自分の行動を制限してしまうだけなのだと。

540 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 23:08:28 ID:gAYKdkL30
「怖い目に遭わせたなぁ」
部屋の電気をつけながら、師匠はあまり済まなそうでもなく言う。
「ちびりました」
僕の言葉に、師匠は「男物の下着はない ぞ」と嫌な顔をした。
冗談ですよと返しながら、僕は車のことを謝った。フロントに傷がついてしまった
はずだ。それよりも、あの破壊したフェンス……
「 なんとでもなる」
そんなことより、スパゲティの残りを食うかと言って、師匠はあと200グラム
ほど残った束をほぐし始めた。
「ダイエットじゃないんで すか」
と声を掛けると、「パワー不足を痛感した」と言って後ろも見ずに壁に立てかけ
た金属バットを指さす。
「防犯なら、それよりもボディーガードを置 きませんか」
僕なりに、真剣な意味を込めて言ったつもりだった。
それが伝わったのか、師匠は台所からきちんとこちらに振り向いて、「さっきの
霊が背中 にくっついて来てるのに気づかないやつには無理だな」と言った。
僕は悲鳴を挙げて、飛び上がった。
「ウソだウソ」
笑う師匠。
542 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 23:11:02 ID:gAYKdkL30
ウソと笑える神経が分からない。服の内側、背中一面に泥がついている。なぜ気
づかなかったのか。血の凍るような恐怖を感じながら、僕は背中に手をやって悶
え続ける。金属バットに足が当たって、ガランという音を立てる。
ウソだよウソ……
師匠の声が、ぐるぐると回る。
「このクソ女!」
確か、そう叫 んだはずだ。その時の僕は。

師匠の、長い話が終わった。
大学1回生の冬の始めだった。
俺はオカルト道の師匠のアパートで、彼の思い出話を 聞いていた。
「これがその時の、バットでついた傷。まったく、ただの泥にえらい醜態だった」
そう言って壁の削れたような跡を指さす。
俺はまるでデジャ ヴのような感覚を覚えていた。
「まるで今の俺みたいですね」
師匠も1回生の頃は、そんな情けない青年だったのか。今からたった4,5年前
の話なのに。
「情けなかったとも思わないけどなぁ。あの人みたいな化け物と一緒にされると、
そう聞こえるかも知れないけど」
師匠の師匠、当時大学院生だったという 女性は加奈子さんといったそうだ。
彼女がいなくなったあと、師匠は空き部屋になった彼女の部屋に移り住んだらしい。
つまり今のこの部屋だ。

544 貯水池 ラスト  ◆oJUBn2VTGE ウニ New!
2007/09/26(水) 23:12:21 ID:gAYKdkL30
「でも、当時の家賃が1万円って、今より千円も高いじゃないですか」
値上げするならまだしも、値下げされるなんて、よっぽど酷い物件なのだろう。
「その 加奈子さんって人は、今はどうしてるんです」
師匠は急に押し黙った。目が、昏い光を帯びてくる。
そしてゆっくりと口を開き、死んだ、と言った。
この部 屋の家賃が、下げられた理由が分かった気がした。
けれど、いつどこで、どうしてということを続けては聞けなかった。何事にも順序
というものがあり、師匠が 師匠になるまでにしかるべき段階があったように、一
人の人間がこの世からいなくなるのにも、相応しい因果があるのだろう。その彼女
の死は、師匠の秘密の根 幹ともいうべき暗部であるという、確信にも似た予感があ
った。
ただその時、彼女はまだ、少しはにかみながら師匠が語る思い出話の中で、不思議
な躍動感 とともに息づいていたのだった。


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テーマ:オカルト・ホラー - ジャンル:

2008.11.26 | | コメント(7) | トラックバック(0) | 師匠編 | TOPへ

コメント

おもしろいから見てみろってURL貼られたメールが俺の召使いからきたからどんなもんかと見てみりゃ
なんだこれ?産業にまとめろよカス読めっかよこんなの

2009/04/06 (月) 17:57:24 | URL | 本当にあった怖い名無し #cRy4jAvc [ 編集 ]

コメントを書くということは、   に似ているわ


まじ師匠に会いたいわ

2009/04/10 (金) 15:25:24 | URL | 本当にあった怖い名無し #- [ 編集 ]

コメントを書くということは、   に似ている。

2010/08/30 (月) 19:22:56 | URL | 本当にあった怖い名無し #- [ 編集 ]

ウニさんにとっては「壷」よりもこっちの方が断然怖い体験だろ・・・
と思ってみてたらそういうオチか

2011/08/11 (木) 18:28:35 | URL | 本当にあった怖い名無し #- [ 編集 ]


読解力ksだな

2012/01/05 (木) 00:10:29 | URL | #- [ 編集 ]

一回きりしか使えない叙述トリック、見事に決まってるな~。さすがウニ。

2012/02/18 (土) 19:16:40 | URL | 本当にあった怖い名無し #- [ 編集 ]

読み返したら、トイレでヒントが出てるんだな

2012/03/04 (日) 18:01:28 | URL | #- [ 編集 ]

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